はない。その大部分は例の玉川学園の「学校事業」に使っているのだから、学校事業家としての氏としては堂々たるものではないかと思う。
新聞で見ると(読売六月二十五日付)、成城へ子弟を入学させている武者小路や加藤武雄、北原白秋の諸文士(いずれもあまり進歩的な顔振れではないことを注意すべきだが)が、小原擁護のための声明書を出し、「ペスタロッチの信条を信条として一生を新教育のために捧げた氏を、その恩顧を受けた教育者である人間が、金銭上の問題で当局に訴える」という「非人間的行動」を非難したそうであるが、この弁護の仕方よりも、私の弁護の仕方の方が、よほど筋が通っているだろう。
世間では小原氏を「教育家」だと思っているから、教育家の特権を濫用する者として、小原氏を非難したくなるのである。併し今日教育家というのは「先生」ということで、学校使用人のことなのだ。こういう「先生」が教育事業のために公金を私消することは、巡査が収賄するのと同様に、特権の矛盾を暴露するもので、大いに非難されるべきことだろう。世間は小原氏を失礼にも例の巡査並みに取り扱おうとする。だが小原氏は決して巡査並みの「教育家」などではない。氏は教育事業家[#「教育事業家」に傍点]なのである。昔、社会事業とか慈善事業とかいう、修身と企業との中間形態が存在したが、それが今日教育界にだけ残っている。それが教育事業なのだ。で小原氏は今、身を以てかかる中間的残滓の清算に当ろうと決心しているわけになるのである。
[#地から1字上げ](一九三三・八)
[#改段]
倫理化時代
一、法律の倫理化
一国の首相が、首相官邸で暗殺される。国務大臣や有力な政治家・有名な資本家の首が覘われる。警視庁自身が襲撃される。其他其他。そんな単純な直接行動をやって何の役に立つかと詰ると、之によって戒厳令とクーデターとへの口火を切ることになるのだと、甚だ尤もなことを云う。
私は何も、五・一五事件や更に溯っては血盟団事件に対する公判に就いて批評を下そうとしているのではない。五・一五事件の如きは、全国の新聞紙が、朝から晩まで、喋り立てている事件で、例えばどういう不快な節まわしの流行小唄でも、朝から晩まで聞かされると、いつかは耳について、何となく忘れ難くなるものだが、それと同じに、こう朝から晩まで、即ち朝刊といい夕刊といい、囃し立てられると、初め鼻であしらっていた相当批判的な読者でも、段々この事件に好意的関心を有つようになり、何か自分と一脈共通したものをそこに感じるようにさえなる。でウッカリしていると、この重大な×××××××したりなんかしたくならないとも限らない。だからこの上、新聞の一種の煽動的報道の尻馬に乗って、ウッカリ犯人××というような犯罪を犯さないために、五・一五事件というテーマ自身を積極的に黙殺[#「黙殺」に傍点]するのが、私の方針である。で決して私は今、五・一五事件の公判などを問題にしているのではない。
さて、戒厳令のためとかクーデターのためとか甚だ尤もなことを云うのである。だがこれが少くとも治安[#「治安」に傍点]を維持[#「維持」に傍点]することにならないことは明らかだ。仮に一市民である私の首が、何かの非合法的な組織によって覘われているとするなら、私の住むこの社会は決して治安の維持されている社会ではあるまい。治安維持とは、正にこうした事態を未然に防ぐことでなくてはならぬ。単に人間が大勢集まって大きな声を出したり、腕を組み合って元気好く歩いたり、自分の自由な考えを印刷にして配ったりすることは、何も治安を乱るものではない。社会に於ける或る一定の人間の生命が覘われるということが、何より直接な重大な治安の紊乱なのだ。
日本には治安維持法という立派な法律がある。だがそう云っても今、この法律を五・一五事件や血盟団事件に適用しなかったとか、したとかというようなことを問題にしようとするのではない。又「治安維持法」という名を有ったこの法律が、一体本当に治安そのものを維持するための法律であるかないかは、一般にレッテルと中身が一致するかしないかが哲学的に決まってはいないように、決っていないのだし、それに治安維持という法律上の概念が何を指すかは、法律学解釈専門家の合理化的解釈を俟つほかない。日本の政府はそうした合理化的解釈をさせるために、法科大学を、即ち今の帝大法学部を、造ったのである。仮に京大の法学部などが横車を押したにしても、教壇や試験場での机上の解釈は尻目にかけて、大審院の実践的解釈が物をいう。法律の世界でも――他の科学的世界に於てさえ何とも知れないのだが――、大学教授よりも判検事の方が、科学的権威があるのだ。
とにかく治安維持法という名称を有った法律が行われているのは、立派な事実である。行われない法
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