野善作学長の辞職勧告に進んで行く処を見ると、恐らく学閥とか学内セクト対立とかが、氏の私かに触れたい要点ではないかと想像される。
 形式的な問題として見れば、審査員が認めても教授会で認めないということは、当然あり得て然るべきことだ。博士は単に学術優等だけではいけないので、思想的にも道徳的にも社交的にも品行方正でなくてはいけない。処が二人位いの審査員は他人のこの品行が方正かどうかを、審査することは事実上出来ない、之を審査するのがまず第一に、他人の噂を色々と知っている(釣や囲碁や談笑酒席?の間に)教授団に限る。その次は文部省のお役人が之を審査する。尤も文芸懇話会の松本学氏のような人を学長か総長にすれば、この学長か総長がよろしく工作を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]むかも知れないが。
 だから審査員が認めたのを教授会で認めないということは、元来少しも変なことではないのだが、併し他方から考えて見ると、審査員に選ばれた教授は云うまでもなく、教授達の内で一等その論文のことの判る人間なので他の教授は大抵の場合、他人の論文の詳しいことがそう一々判るものではない。そこで本当を云うと、論文提出者とその審査員との人物が気に入る入らないは別にして、論文そのものに就いて云うなら、審査員の学術的資格を信用して了って全員賛成するか、それとも之を信用する気にならなければ、賛成でも不賛成でもない白票を投ずるかの他はないのである。処がよく考えて見ると之も亦変なもので、教授会の権威から云って、あの論文の良し悪しは判りません、というような態度は許せないことだろう。では欠席するかというと教授会を勝手に休むことは官吏の服務上之亦許されないことだ。
 博士というものが学術優等で且つその上に品行まで方正でなければならぬと仮定する以上、右のような八方ふさがりに陥るのである。処がこの二つの資格は云うまでもなく日本では絶対に必要なのである。第一日本に於ては学術そのものが国家に(社会にではない)枢要なものでないといけないらしいが、その国家で建てた、又は之に準じている大学の学問と之を奉じる人物とは、云うまでもなく国家的見地に立って品行方正であることが必要だ。第二に、併し大学の教授団は、共同研究をする機関などではない、大学教授の研究は各自独立に排他的にさえやることになっているから、教授団乃至教授会は研究機関ではあり得ない。そうすると之は一種の同職組合、学術業のギルド組織に似たものだろう。このギルドの気質《かたぎ》と仁義にかなわないような学問や人物は、「学術」でもなければ「学者」でもない。処がこの学術業ギルドは、東大は東大、京大は京大、慶応は慶応と夫々気質と仁義とを異にしている。同じ商大でも東京商科大学と神戸商業大学とは仁義は反対だ。処がこの同じ東京商科大学ギルドの内でも、仁義に流派があって、或る一方の仁義から見て品行方正な学問と人物だけが「学術」的となる資格を有っているというようなわけだ。
 さて事実、東京商大にどのような仁義があるか、私はよくは知らない。なぜ国立というような無人の荒野にわざわざ持って行って、教会かチャペルのような建築の商人の大学を造ったのかさえも、私には判らない。併し凡そ官立大学(帝大を含めて)や之に準じる公私立大学一般の、学術の優等振りと品行の方正振りとを、即ち大学の科学振りを、吾々は大体に於て知らないのではない。それから又杉村氏の科学上の研究を一々専門的に知っているのではないが、氏の大体の科学的な水準に就いては、あまり見当違いでない判断が出来るだけのチャンスを吾々は持っている。そこで大学のこの科学水準と、杉村氏のこの科学水準とをつき合わせて見ると、どう間違っても杉村氏は立派に博士に及第しなければならぬ、というような気がするのである。
 私は日本で出版された所謂経済哲学に就いての研究を、三つ四つは見ている。故左右田博士の論文集や故大西猪之介氏の『囚われたる経済学』、学位論文としては京都帝大の石川興二氏の「精神科学的経済学の基礎問題」と法政大学の高木友三郎氏の「生の経済哲学」など。之に比較して見るならば、まだ見ないのだが多分今度の杉村「博士」の論文は決して遜色あるものではなかろうと僣越ながら推測されるのである。
 杉村氏は人の知るように左右田喜一郎氏の経済哲学を継承発展させた所の学者である。処が左右田氏は銀行家としては失敗したが、ブルジョアジーの代弁的哲学者としては、とに角押しも押されもしない代表者であった。今日のブルジョア社会では、却ってああいう形式主義的な合理主義は流行らないが、それは云わば封建的要素と結合したブルジョア社会のファッショ化の結果であって、形式主義的ナショナリズムはブルジョア科学用のイデオロギーの一要素として、今
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