前において、当時京大教授側を支持した美濃部教授その他を罷免しろと、この鳩山君が迫って来て仕方がなかった、と述べたそうだ。之で見ると美濃部博士はすでにその時免職の可能性があったものと見える。
 小野塚総長は名総長で、他の大学の総長や学長のように次官や局長級にペコペコせず、堂々と文部省に臨んだし、流石の軍部の教官も謝ったという噂であるが(之も噂だ)、今度の長与総長に果してそれだけの腕と腹とがあるだろうか。松田文相に呼びつけられて、管下の美濃部派自由主義教授達に緘口令を敷いたと聞いているのは本当だろうか。
 それはとに角、博士は幸いとして無事教授を卒業して名誉教授となり、学士院の会員ともなり、更にその憲法学説の研究の功績を愛でられて勅選議員に勅選されるの栄誉に浴したのである。もしこの栄誉が誤り与えられたものとすれば、之を勅選し給うべく奏請した者は一人としてその補弼の上の責を免かれるものはあり得ない。少くともこの点は論議の余地のない程明らかと思われる。もし美濃部博士が一切の栄職を辞さねばならぬ大義名分があるとすれば、同様に之を勅選に奏請した臣下は一切の栄職を擲つべきだろう。なぜなら奏請する以上はこの学者の学説とその学術上の影響とを国家の見地から見て尊重すべきものと見倣したわけで、その点から云って夫々一個の美濃部主義者でなければならぬからだ。現在は美濃部主義者ではなくなったと云った処で、そういう転向は場合が場合だから弁解にならぬ。――まあ理窟はこういうわけだが、事実は、今まで責任を感じて一切の[#「一切の」に傍点]栄職を擲った奏請者はただの一人もいない処を見ると、必ずしも博士の例の栄誉に誤りがあったのではないことが立証されているし、博士も亦、その学説は云うまでもなく、一切の栄職を擲つ理由もないと主張している。他の人間共の云うのでは信用出来ないが、合理的に理性的に物を考え物を云う博士の言葉だから世間は広く之を信用するだろう。
 で結局博士の学説に仮に何かの誤りがあったとしても(之は検事という専門家を信じる他ないので民衆の容喙すべき事柄ではない)、夫はその実質に於て名目程重大な意味のものではないのだ、という結論を、世間は這般の事情から惹き出すだろう。だが栄職は擲たない博士は、中央大学の教授とか、早稲田の教授とか、商大の講師とかいう不名誉な(?)職は擲つ決心になったらしい。で、免職教授の花形も、実は大した免職甲斐がないのである。
 事実、検察当局は研究の結果、美濃部学説は出版法違反にはなるが、不敬罪にはならぬ、という結論に達したらしい。出版法違反と云ってもこの場合には国体に関係したことらしいから(之も検事を信じる他ない)、その罪は軽いとは云えないわけだが、併し博士の犯罪はその出版行為に限定されるわけで、多分大学で講義をしたり多数の学者を養成したりしたという功績に於ては、犯罪を構成しないわけになるのだから、まず世間で指摘している例の奏請責任問題に抱ける矛盾は免かれる。併し当局は、之以上判定に油が乗ると、解くべからざる矛盾に陥るのだということを覚えておくべきだ。
 尤も今まで歴代の内閣がこの不当な著書を看過したという責を問われるかも知れないという点に就いては、内閣は、それは時代の風潮が変って来たのだから問題にならぬという解釈を採っているらしい。つまり時代がファッショになったからファッショの標準で法文を解釈すべきだという意味だろうと思う。そうするとこうしたファッショ好みは国家によって公的に社会の新常識=通念として承認されたことになる。博士は犯罪は構成するが之を起訴すべきか否かは当分、と云うのは満州国皇帝陛下御滞在中、輿論の趨勢を見てからのことにすると新聞紙は伝えているが、他方美濃部排撃の一派は、やはり御滞在中運動を見合わせるという同じことを云っている。ここからも亦、天下の輿論が国家によってどういうものとして公認されているかが理性によって推論され得る。尤も之は理性による推論だから日本の新常識には通用しないかも知れぬが。
 滝川事件では文部省の反省を促し、統帥権に就いては軍部の反省を促し、帝人事件に就いては司法部の反省を促した最近の美濃部氏は、文部省関係である教授免職は年の功で免れた代りに、軍部の反対と司法部の判定とによって、居ながらにしていつの間にか犯罪者となったのである。時間の又は時代の推移がこの結果を齎したとは云え、法律の専門家で而も立法機関たる貴族院の議員である博士さえ、ついウッカリしてこういう生存適応のやり損いをやるのを見ると、日本のムツかしい法律に無知であり而も立法の議に直接参画出来ない吾々素人庶民は、一日も安んじて時間を推移させることが出来ない、などと愚痴をこぼす者は逆賊であるかも知れぬ。
 だがそういう不景気な話はやめて、もっと面白い話
前へ 次へ
全101ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング