万円に達する見込みだそうだ。陸軍部内では、単に醵金するばかりでは軍部らしくないとして、陸軍部内の武官文官打ち揃って、組織的な救済運動をやろうということになった。それから東京・長野・新潟・宮城・其他の府県の地方官吏も亦続々として減俸による醵金を決定したと伝えられる。警視庁の高等官も俸給の百分の三を、今後六カ月に亘って割くことになり、判任官も之に呼応するらしいという状勢になって来た。――三菱は前に二百万円を寄付したが、三井が今度三百万円寄付したので、百万円足して三井同様三百万円にすることにした。其他様々。
今や日本は上下を通じて、日夜東北救済義捐金の醵出に夢中である。曽つての国防基金の醵出の風俗などは今ではどこへ行ったか姿も見せない。今にして判るが、日本人はこんなに人間的同情に富み、義勇の道徳が身につき、こんなにも社会事情に敏感で熱心であるのだ。――処が私は不幸にしてあまりこうした浮気な同情や道徳やセンシビリティーを信用出来ないのである。同情や道徳やセンシビリティーが、婦人団体のように貞淑で浮気だからばかりではない。もう少し他に理由があるのである。
一体同情というものは、云わば人間界に発生した自然現象について生じるという特性を有っている。商売に失敗して首が廻らなくなったということでは、あまり同情の対象にはならぬ。お説教の対象にはなっても人間の道徳的皮膚感触を触発するものではない。之に反して火事で焼け出されたり不慮の病気で食えなくなったりしたのは、同情の一等優秀な模範的な対象になる。病気など実は大部分一つの社会現象なのだが、之を同情の対象とするためには無理にも之を人間界の一つの自然現象にして了わなければ、どうも都合が悪い。
つまり同情というのは、社会現象ならばお説教すべき処を、自然現象として見るのでお説教の代りに持ち出されるものなのだ。病気でも多少科学的に取り扱い出すと、病人の日常生活に対する医者先生の養生法の説教一つきりになるのであって、又之を天帝や為政者の怒りや不徳の致す処にして了えば再び天帝や為政者の責任問題になって了うので、いずれももはや同情の対象ではなくなって了う。同情とは「自然現象」に対する社会人の原始的な反作用である。
処で東北地方の凶作飢饉がなぜ現在このようにセンセーショナルな同情[#「同情」に傍点]の対象になっているかというと、単に世間の人達の意識が甘くて、婦人団体を道徳上の模範としているばかりではなく、更に進んで、この同情を守り、この道徳を傷つけないために、東北地方問題を専ら一つの自然現象[#「自然現象」に傍点]として見ようと努力しているその努力が立派に報いられたからなのである。
成程凶作だったから農民が食えなくなったに相違はない。併し仮に豊作であっても飢饉にならないとは保証出来ない、という過去の事実を、世間人の浮気な同情は、まさかスッカリ忘れて了っているわけでもあるまい。所が凶作は冷害の可なり不可避な結果だったから、そして飢饉はこの凶作の結果なのだから、東北の飢饉の原因は冷害[#「冷害」に傍点]にあるというのが世間の人達の同情の原因なのである。
安藤広太郎・寺尾博・岡田武松・藤原咲平等の農学及び気象学の学者達が集って、農相官邸で「冷害対策懇談会」を開いて、色々面白い研究が発表された。水温が低いと凶作となり又不漁になるとか、火山の爆発が冷害凶作の遠い原因にもなっているとか、注目すべき統計上の結果が公にされた。自然科学的な乃至は純技術的な観念からすれば、冷害対策はこの種のものとおのずから限定されるのは云うまでもない。
だが判らないのは農林省当局の意図であって、なぜ農林省は東北の飢饉[#「飢饉」に傍点]を凶作[#「凶作」に傍点]に、凶作を冷害[#「冷害」に傍点]に、それから冷害を気象的地質的現象[#「気象的地質的現象」に傍点]に、すりかえるのかという点だ。まさか火山の爆発を鎮圧したり、日本の水温を温めたりして、今後続くだろう東北農民の貧困を防止しようとは思っていないだろうが。同じく根本的[#「根本的」に傍点]に永久的[#「永久的」に傍点]な対策ならば、もう少し現実的に利き目の著しい対策がありそうなものだ。一体凶作の問題は「米」の問題ではないか。農林省が東北問題対策として一等先に之に気づかないというのは、どうした次第なのか、吾々には判らない。
政府は政府で、「東北振興審議会」なるものの官制制定に多忙を極めている。一、内閣所属とし会長は総理大臣之に当り、内務農林両相を副会長とす、云々というわけだ。政府は天文台か地震研究所でも造るような、床しさを示している。――私は例の婦人方の純真な「同情」が、このような色々な冷静なる研究態度に変形して行くのを見て、お気の毒に思う他はない。併し何しろ、事件が「自然現象」であ
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