けない。
 だが幸いにして、世間では軍部のこの第一の断案に対しては別に「誤解」もしなければ反対でもないらしい。寧ろ大いに賛成なのだ。世間も亦この農村[#「農村」に傍点]という言葉のマジックが気に入っている、そこへ農村の神様である軍部自身が夫を裏書をして呉れたのだから気丈夫この上もないというわけである。
 国防上の第二の問題は、思想問題[#「思想問題」に傍点]である。ここでは悪玉は、「極端なる国際主義」と「利己主義」と「個人主義」とであり、又「泰西文明の無批判的吸収」と「知育偏重」とである。之に対立させられる善玉としては、「国家観念と道義観念」や「質実剛健」「実務的実際的教育」などが挙げられる。併し思想問題は一時的な国防上から考察される場合も、永遠な人間教育の立場に立つ文部省の立場から考察される場合も、少しも内容が変らないものと見える。まことに予定調和と云わねばならぬ[#「云わねばならぬ」は底本では「云わねなばらぬ」]。無論世間がこうした予定調和を見て大満足の意を表せずにはいられないのは無理からぬことだ。
 国防上の第三の問題は、武力[#「武力」に傍点]である。之は軍部に一任すべき性質のもので批評の限りではないが、世間がこの点で完全に軍部を信用しているという事実は、日本朝野の例の軍縮気※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]からも推察出来る。
 だが実業家や政治家を驚かせ且つ怒らせたものは第四の国防上の問題である経済政策論[#「経済政策論」に傍点]なのだ。軍部の見解によると、現在の日本の経済組織の欠点は、(一)経済活動が個人の利益と恣意とに放任されて「国家国民全体」の利益と一致しないこと、(二)自由競争激化の結果、排他的思想を醸成し階級対立観念を醸成すること(※[#感嘆符二つ、1−8−75])、(三)富の偏在、(四)国家的統制力の弱小、などであるという。
 之に臨む経済対策は、国防上[#「国防上」に傍点]、次のようなものになる。即ち(一)道義的経済観念[#「道義的経済観念」に傍点]に立脚して国家国民全体の慶福を増進すること、(二)国民全部に勤労に応ずる所得を得させること、(三)金融と産業の制変運営を改善して資源開発・産業振興・貿易促進、それから国防の充実、(四)国家の要求に反せぬ限り個人の創業[#「個人の創業」に傍点]と「企業欲」を満足させてそれで勤労心[#「勤労心」に傍点]を振興させること、(五)公租公課を公正にすること、などになる――注目すべきは資本家打倒とも政党撲滅とも云っていないことで、実業家や政治家は之を見て何だって怒り出したのか気が知れない。
 或る一群のブルジョア・イデオローグは之を見て国家社会主義の宣言だと極言する。併し他のもっと冷静な経済学者達は、そんな危険なものではなくて単に統制経済を唱導するものに他ならぬと云うのである。国家社会主義が、如何に社会主義という名が付いていた処で、なぜブルジョアジーにとって「危険」なものであるかが私には今日に到ってもまだハッキリと判らないのであるが、それはとに角、資本家打倒でも政党撲滅でも、まして資本主義打倒でもなくて、却って個人の創業と企業欲とを満足させ、一方夫によって勤労者の勤労心を養成しようと云っているのだから、どこに一体実業家や政治家が怒らねばならぬ理由があるのか。金融や産業の制度もウマくして呉れると云うのではないか。それから実業家政治家諸君! 諸君が蛇蝎のように悪む「階級対立観念」は、国防的見地からすると道義的経済観念に立脚すれば消えてなくなるそうである。不道義的な自由競争さえ一寸止めれば、排他的思想はなくなり(尤も国際間の排他思想は別だが)その結果階級対立観念はなくなるというのだから、実業家政治家諸君! 諸君は国防的[#「国防的」に傍点]にさえなれば、万事は諸君の望み通りウマく行くのだ。それに諸君は一体何を怒っているのか。――凡ては国防なのだ、「国防」が万事を解決する、軍部のこのパンフレットはそういう一個の鋭い真理を提唱しているのだ。この真理の判らない実業家や政治家は、子の心親知らずとでも云うべきだろう。
 一体農村問題や思想問題や武力の問題に就いては軍部の提唱に大賛成の意を表しておきながら、経済問題になると突如として不賛成を唱えて怒ったり何かし出すのは、何と云ってもそれは政治家や資本家の得手勝手というものであり、前後矛盾というものである。このパンフレットは一貫した論理を以て貫かれているのだ。一部分だけ賛成して一部分反対するというような卑怯な態度は、国防上許すことが出来ない代物である。
 軍部は実業家・政治家、それから地主の云いたくて仕方のないことを、率直に、統一して纒めて云って呉れているに過ぎない。このパンフレットの発表の動機や時期などを兎や角問題にするの
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