ひょっとすると自分は英雄になったのかも知れない、或いは神様に之から祭られるのかも知れない、それでこんな特別な着物を着なければならぬのかも知れないとも考えられたが、併し反対に、自分が今決死隊か何かで、又死刑囚か何かで、それとも又祭壇に捧げられる犠牲か何かで、皆んが[#「皆んが」はママ]責任を自分になすりつけるために、自分を飾り立てているのではないかしら、という心配もしないではいられなくなって来た。
大人や小供が身動きの出来ないように列車のホームに押しかけて来た。顔馴染の人もいたが、全く見知り合いのない弥次馬風の人間も多い。愈々自分がどうにかされるのだなと覚悟を決めざるを得なくなった。処が突然ある紳士が皆の前に押し分けて出て来て、何か挨拶を始めた。それから神主が何のためか知らないが祝詞を上げた。それが終ると渋谷の駅長さんが又何か喋った。けれどもこの時からハチ公に不思議に思えてならないのは、皆んなの注目の的が、自分よりも他の何かのものに移って了っているらしいということだった。とそう思っていると十歳ばかりになった女の児が出て来て、眼の前につるしてあった、彼が着せられたと同じ紅白の幕を引き降ろすのであったが、増々皆んなはその方にばかり瞳を集めていて、ハチ公のことはもうスッカリ忘れて了っているように見えるのであった。
彼が驚いたことには、幕が降りて現われたものは彼自身の銅像だったのである。皆んなは一緒にこの銅像に向って歓呼した。それがすむと本人のハチ公が銅像の側に引っぱり出された。そしてもう一遍皆んなが歓呼した。併し皆んなの瞳が集められているのは彼の銅像に対してであって、決してハチ公に向ってではない。
ハチ公はつき落されたような失望と屈辱とを一遍に感じた。観衆の対手にしているのは彼ではなくて、彼よりもずっと大きくて立派な彼の銅像だったのだ。この銅像が出来ればもう自分はいらないものだとすると、ひょっとして自分は殺されるのではないかという不安さえが、急に彼を襲い始めた。彼は急いで駅の外へ飛び出した。するとそこで自分のブロマイドやハチ公煎餅やハチ公チョコレートというものを売っているのに出会した。処が今日は子供達までがハチ公などに見向きもしないで、このハチ公煎餅やハチ公チョコレートに気を取られている。
ハチ公は自分が何か魂を搾取される手術でも受けたように、自分と自分の持っている意味とが、メリメリと引き離されるような身慄いを全身に感じた。すると夫と一緒に、例の主人のお伴をした時以来の、渋谷駅に足が向くという、どうしても癒らなかった奴隷的な陋習が、一遍に身体から抜き取られたような気がし出した。彼は渋谷駅など、満腹の時に御馳走の相談を受けた時のように、バカバカしい存在であることを発見したのである。
後で判ったことによると、ハチ公が弥次馬だと思った大人達は、文部省や外務省や、又鉄道省やのお役人達だったということだ。鉄道省のお役人は駅のホームでハチ公の銅像の除幕式を挙げるのだからやって来たのだし、外務省のお役人は除幕式の光景をトーキーにして外国人に拝ませてやるために来たのだそうだ。文部省のお役人は恐らく、ハチ公の銅像がどの位い忠義[#「忠義」に傍点]な形をしているかを調査に来たのだろう。
話は別であるが、司法省の皆川次官が「大孝塾」という「忠孝」の研究所を作った経緯は面白い。ある共産党の被告の一人が取調の係官に忠孝の道の尊いことを説かれて、「お話はよく判りました、併し何故忠孝の道が尊いか、その根拠を教えて下さい、なる程と得心が行けば今日ただ今からでも忠孝のために生死致します、と詰められて答えるところを知らなかった」ので、そこで忠孝研究所が出来たのだそうである。研究主任格の某君と某君との今後の努力に俟たなければならないけれども、併し両君もただ研究しているだけで、之を実践躬行するのでなければ、銅像などは立てて呉れないものと覚悟しなければならないだろう。一体この頃は銅像が仲々流行って、犬養木堂翁のも出来上ったし、鈴木喜三郎氏の銅像も除幕式が行われた。それからチャップリンの「街の灯」も銅像の除幕式から始まっている。尤もこの映画の除幕式では、貴顕紳士淑女の演説が、甚だ不敬にも、ピーピーパーパーという発音をするのであるが。
二、体育派とスポーツ派
問題は四月九日から上海で開かれた日支比三国の第十回極東選手権大会円卓会議に始まる。その前に予めマニラへ派遣されていた山本忠興博士等は、フィリッピン体育協会代表から、日本が上海円卓会議で満州国代表選手を出場せしめる動議を提出する際、之に協力するという言質を、予め開かれたマニラ会議の席上で得たものだと思い込んで、之を大日本体育協会に報告しておいた。処がいざ上海円卓会議になって見ると、フィリッピンは突然、非
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