で、スッカリ人違いをして了ったわけだ。――だがいくら何でも時の検事総長と一弁護士とを単に名前が同じで而もあり振れた小山という名だというだけで、人違いをするのは、あまりと云えばあまりだと思っていると、岡本氏が証人として挙げている「鯉住」の女将お鯉さんが、憲兵隊へわざわざ自分から出頭して確かに検事総長の小山さんに違いないと申し出たのである。
そこで検事局ではお鯉さんと弁護士の[#「弁護士の」は底本では「辞護士の」]方の小山氏とを対質させて見ると、弁護士は「私が鯉住へ云った」と云い、之に対してお鯉さんは「あなたは来なかった」というので、一向埒があかない。そこで、どうもお鯉さんが嘘をついているらしいと云うので、宣誓させてもう一遍テストすると、矢張小山検事総長に違いないというので、遂々検事局は、お鯉さんを偽証罪で告発し、市カ谷刑務所に収容して了ったわけである。
お鯉さんと岡本代議士との背後には黒幕があって、それが二人を操っているという、検事局の見込みらしい。それに関係して某代議士も召喚されるかも知れないという。なる程そういうことも大いにありそうなことだ。だがお鯉さんはかつては数多の高位顕官を手玉に取った桂公の愛妾だ。老いたりと雖もメッタな嘘はつくものではないだろう。嘘をついたとすれば多分相当大きな意味を持つ嘘だろう。ただお鯉さんは何と云っても高が待合の一女将に過ぎないのだから、この大きな意味のある嘘を、「本当」にまで組織するだけの条件が欠けていたばかりに、有態に嘘つきの罪名を被せられる浮目を見なければならなかった迄だろう。
検事局の取調べ中の事件に就いて、とや角云うことは無意味なことだし、又恐らく邪魔にもなるだろうから、深く立ち入って想像を廻らすことなどは慎まなければならないが、併し新聞を読み合わせて見てどうも判らない一点は、小山弁護士とお鯉さんとの対質で、なぜお鯉さんの方が嘘つきで小山弁護士の方が本音を吐いていると判ったかである。無論検事局ではその点ぬかりはない筈だが、新聞の上ではどうもその点がはっきりしない。で世間ではこんなようにこの関係を解釈出来やしないかと云っている者さえもいるのである。それは、小山弁護士もお鯉さんも別に嘘をついているのではなく、両方とも少しずつ思い誤りから出発しているので、特にお鯉さんは誰か小山検事総長の兄弟か何かで法相に非常に能く似た人が検事総長の名を騙ったのを、ウッカリ本物と思い込んで了ったのではないか、と。それならお鯉さんは少くとも嘘つきの悪名だけは雪げるわけである。(一九三四・四)
[#地から1字上げ](一九三四・五)
[#改段]
失望したハチ公
一、失望したハチ公
雨の日も風の日も、死んだ主人にお伴をした習慣のままに、渋谷の駅頭に現われるハチ公である。彼は今では全くの宿なしで、大分老耗したルンペンだったが、外に行く処は別にないし、それに習慣というものは恐ろしいもので、周囲の事情がどう変ろうとも、渋谷駅の方に足が向く古い癖は決して直ろうとはしない。だが彼はこの牢として抜くべからざる奴隷的な陋習のおかげで、渋谷の駅頭ではすっかり縄張りが出来上り、顔なじみも段々殖えて、自分のルンペン振りもどうやら職業化して来たことを感じるようになったのである。
初めは嫌な顔をして見せた駅夫達も、彼の「顔」が相当売れ始めたのを知ると、時々お世辞などを云って接近しようと企てる者さえ出て来る。特に彼が駅長の注目を惹くようになってからは、彼は云わば駅に於ける公民権を得たようなもので、前よりも一層有利な条件で以て自由に自己宣伝も出来るようになった。力めて栄養も取るように心掛け始めたので、見目形も少しは好くなって、それだけ益々有利に事情は展開するようになって来たのである。
で遂に彼は忠義者のハチ公として、名高いハチ公として、売り出すことになって了った。実は自分でも初めはこう人気が出るとは思わなかったのに、世間は案外なもので、彼は今では押しも押されもしない街の名士になり上って了った。それで彼の処にはこの間から、新聞に書いてやろうの、写真を呉れのと、ジャーナリストが盛んに訪問して来る。俺も偉くなったものだな、と彼は何かくすぐったいような嬉しさを感じるのである。もしも主人が死ななかったら、俺もあんなに落ぶれずに済んだわけだが、併しその代りにこんなに偉くなる機会も掴めなかっただろうから、何が幸になるか判らないものだ、とつくづく考えられる日が幾日も続いた。
処が四月の二十一日である。彼は自分が何とも知れぬ気味の悪い紅白の布を首から背中にかけられているのを発見して、スッカリ不愉快になって了った。自分の好まない衣類を着せられる程、自分を惨めに感じることはないので、彼はひどく不安そうにウロウロしないではいられなくなった。
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