職の間際に良い心掛けを説教[#「説教」は底本では「説数」]しておくのが一等効き目があるわけだ。
香坂府知事はそこで、三つの師範学校の卒業生四百六十八名を商工奨励館に集めて、集団的に辞令を交付する式を挙げることにした。之は辞令をなるべく出来るだけ厳粛に交付することによって、銘々の任務が並々ならず重大であるという気持を起こさせ、滅多には[#「滅多には」は底本では「減多には」]収賄も贈賄も出来ないぞという気にならせるためであるらしい。尤も香坂府知事自身が一時間も遅刻したことは、この厳粛な式の出鼻を挫いてケチをつけたわけだが、別にそう縁起を気にする必要もあるまい。
この試みは非常に時宜に適したものであることは間違いないが、併しこれで見ると一体小学校の先生達は、その筋から大いに期待をされているのか、それとも甚だ不安がられているのか、一向判らないという人がいるかも知れない。それは全くそうで、賄賂を授受しそうであればこそああ云った式も必要だったのだから、従っていくらああいう式を挙げて見た処で、先生達は矢張、いつか賄賂を授受しなければ立ち行かない客観的情勢に立ち到るだろう。小学校教育行政組織やそれと裏表にあざなわれている師範教育の根本特色を訂正しない限り、先生方の「人格」も訂正出来ない。仮に師範学校を専門学校程度に直しても、それが「師範学校」教育である限り、他の点はとに角として、この賄賂の人格性に就いては、恐らく何の変化も齎らされないだろう。
だが賄賂の問題は実は、小学校の先生の社会的使命から云えば、大した問題ではないのだ。それは高々府か県で心配すればいい問題で、国家乃至政府にとっては、もっともっと大きな問題があるのだ。先生の「人格」だって、教員の「正しさ」だって、そこまで行かなければ着眼点は低いというものである。でこの高い「国家」的な着眼点からいうと、小学校の先生達は、国家から何にも増して大きな最後の期待をかけられているのである。もし今日のわが国家が、この点に於て小学校の先生を疑い始めたら、それはもうわが国の厭世自殺を意味するのだ。
そこで、堅実なる第二国民の養成を天職とする全国二十五万の小学校教員は、三万六千余名の代表者を送って、昭和聖代の御慶事 皇太子殿下の御降誕を奉祝し併せて忠君愛国の日本精神を昂揚して教育報国の誠を示す処の小学教員精神作興大会[#「小学教員精神作興大会」に傍点]をば、神武天皇祭(四月三日午後二時)を期して宮城二重橋前広場で持つことになった。
畏くも 天皇陛下は該式場に親臨あらせられ、御親閲を賜り、優渥な勅語を賜うた。之に対して文相斎藤総理大臣は奉答文を奏し、大会は決議に入って、一、「吾等は協心戮力国民道徳の為めに邁進し愈々国民精神を発揚して肇国の宏謨を国民教育の上に光輝あらしめむことを期す」、それから、二、「吾等は至誠一貫職分を楽み身を以て範を示し師表たるの本分を完うせむことを期す」ということに一決したのである。文相斎藤総理大臣は更に、「国体の本義に基き益々我が国民精神を作興し国本を培養して皇運を扶翼し奉るの特に急なるを」訓辞した。その次には一同は新宿御苑拝観の栄を賜り、四日には記念講演会が日比谷の公会堂や大隈講堂や日本青年館や青山会館で盛大に行われたのである。――位階勲等もない而も田舎の小学校の先生が、こういう常人には思いも及ばないような光栄と、大東京の真中のセンセーションとに値いするということは、小学校の先生達が、今のわが国家、社会からどれ程期待され信任されているかを物語るものではないか。
こうした期待や信任に就いて不安があるからと云って、こういう式が行われたのでは断じてない。こうした期待や信任を宣布するためにこそこの式は行われたのだ。
併し念には念を入れなければならない。小学校の先生達に対する国民精神教育の戦士としての絶対的な期待や信任はさることながら何しろ二十五万に余る先生達のことだから、賄賂の方はまあいいとして(之は「職分を楽しむ」ことに決議したから大抵大丈夫である)悪くすると一人や二人赤化教員などを出さないとも限らない。そこで東京府学務課では率先して、主として小学校の先生達を中心とする「思想問題研究会」を組織することにした。研究委員は府市学務当局を始め警視庁・裁判所・刑務所などから思想上の権威五十名を選んだもので、その哲学上の権威に於ては並ぶべきものはない。――ついでに云っておくが司法省の皆川次官の肝煎りで出来る研究会は主に経済学の権威ある研究をするらしく、転向した有名な某氏が研究主任で積極的に研究員を勧誘していると聞いている。
文部省になると併しもっと用意周到である。文部省には学生部[#「学生部」に傍点]という特殊な存在があったが(国民精神文化研究所は確かこの管下だったと思う)それが今度
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