干犯問題には触れないという声明を与えたから、軍部も政友会もあまり深く追及することはさし控えた。十月十六日の東京に於ける民政党懇談会席上では、ロンドン条約にあまり触れないと云って、海軍第二補充計画についてだけ語っている。海軍当局は最後に、この第二回目の演説に対して非公式な声明を発して、若槻総裁を反駁した。曰くロンドン条約は欠陥だらけであり、且つ「条約締結の手続きに於て憲法上の不備の点が多々あったことは既に明なる事実であり」、海軍第二次補充計画はロンドン条約の欠陥を補うべき第一次計画と同時に、ロンドン条約の直後に立案されたもので、ロンドン条約の不備欠陥を補うのがその目的であったことは言を俟たないというのである。
 条約に欠陥があり又その埋め合わせとして第二次補充計画を立てたのだという主張は、見解[#「見解」に傍点]や意図[#「意図」に傍点]の問題に帰着するわけで、本当の当事者であり専門家である軍部の云うことの方が、信頼出来るような感じがするだろう。だが「憲法上の不備」云々ということになると、不幸にして世間はそう安々と同じ調子で「諒解」はしないだろう。憲法の権威ある専門家から、合理的な説明を聴くまではどんな説も徹底しない。
 処で東大教授美濃部達吉博士は、東京帝大新聞で、統帥権干犯に関する或る一つの説明を与えている。それによると、全権が軍令部の云うことを聴かないからと云って、少しも統帥権干犯などにはならぬ。軍令部と、統帥権の主体とを混同する如き態度こそ大権干犯ではないか、という要旨であった。なる程そういうものかなとは思うのであるが、之を合理的に反駁した憲法権威者の説をまだ聴いていないから、吾々素人は今の処判断しかねる。軍令部の機能が最近変更されたというような噂を耳にするから、多分海軍側にはこの点に就いて輿論が納得出来るような解明が用意されていることと信じる外に道はない。
 若槻総裁の演説は、初めは脱兎の如く終りは処女のようであったが、所謂五相会議[#「五相会議」に傍点]は之に反して初めから黙々とした会合であった。五相の間に対立があったとか、その対立が止揚されたとか云った、禅機に充ち充ちた弁証法的過程の揚句に、公表された処は、「五相会議に於いては外交、国防、財政の調整の根本に関して隔意なき意見の交換を遂げたる結果相互の諒解を深めその大綱に関し意見の一致を見たり」という六十五字である。主として対ソヴィエト・対アメリカの外交政策が問題になったらしく、新聞には色々と書いてあるが、結局の処吾々に判る処は、何か無理に抽象的な報道だけだから、今の六十五字の方が却って五相会議の発表された限りの真髄に当るわけである。
 民政党はこの時に当って、一寸異様な要求を政府に提出している。それは、政治経済の革正・教育制度の改善・思想善導・その他も大事だろうが、それより今大事なのは人心の安定で、それには言論自由[#「言論自由」に傍点]が何より大切だから、之を保証しろ、というのである。言論の自由が封鎖されているもんだから色々な流言飛語が乱れ飛ぶので、夫が社会不安の本質だというのである。この「社会学」はとに角として、民政党には(そして多分政友会だってそうだろう)大変言論の自由が必要であるように見える。――処で五相会議は内政国策会議[#「内政国策会議」に傍点]へ続くのであるが、この会議に這入るに際して、陸軍は自分の「対内国策」に対する浮説を否定して非公式に声明している。「最近世上に陸軍の対内国策案に関し、各種の浮説が喧伝せられ、世人に衝動を与うることも尠くないようであるが、陸軍としては対内国策については国防の見地から慎重なる研究を為してはいるが、なおこれを発表するの機に到達しておらないのみならず、従来世上に陸軍案として発表せられたものは、全然陸軍に関係のないものであることを言明する」と(読売新聞十月二十六日夕刊)。
 なる程こんなに浮説が色々浮んでいては、人心全く不安なわけで、或いは言論の自由も少しばかり必要になるかも知れない。併し実際には、現に言論は全く自由なのである。例えば陸相は、日本が皇道精神を世界に宣揚することによって、世界平和の方策を自主的に提唱すべきだと論じたと報じられているが、之は全く自由に充ち充ちた溌剌とした言論ではないだろうか。之に対して外務省当局や消息通が、極東モンロー主義(国際連盟の脱退をそう呼ぶのだそうである)を自ら放棄するものだとか、徒らに国際政局を刺※[#「卓+戈」、124−上−10]するものだとか、批評することは、又彼等の自由[#「自由」に傍点]である。この世界平和論と五相会議の内容とがどういう関係にあるのか併し吾々には判らない。
 とに角五相会議は終結して、世の中は内政国策会議の時代に這入った。先ず何から議論しようかということ自身がここ
前へ 次へ
全101ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング