では議論の第一歩であったようだが、この頃流行る対立もどうやら止揚されて、後藤農相は農村問題[#「農村問題」に傍点]を提げて立ち上った。併し農村というのは、米穀の[#「米穀の」は底本では「米殻の」]生産や何かはとに角として、何よりも兵隊を産出する土地のことを云うのだから、農相の説明だけでは心細い。農産物販売統制や農村工業化問題(実は工業農村化の問題)に、少くとも農村の教化問題が結び付かなければならなくなる。すると之はもう農林大臣の権限外になりはしないかと心配になるのである。
[#改段]


 小学校校長のために

   一、小学校校長のために

 東京に於ける現職の小学校長四名に元小学校長二名、府立師範同窓会理事、それに出版屋二名が、収賄贈賄の容疑で検挙された。それに続いて某視学と某学務課長も取り調べを受けた。警視庁当局の云う処によると、容疑者凡てを正直に検挙すれば、留置場に這入り切らない程出て来るから手控えているというのだが、噂によれば×××自身にも手を延ばそうとすれば延びそうだということである。
 仮に教育界関係の容疑者をつれて来なくても各署の留置場は超満員で、それは左翼の連中を非常に沢山検挙し、而もどういう理由からか知らないが、非常に永く入れておくからで、警察ばかりではなく、刑務所も超満員で建て増しが緊急に必要だそうだが、左翼分子の検挙が盛大だということが、偶然にも、他の小学校の校長さん達に安心を齎しているわけである。
 それはとにかく、各小学校で準教科書として使っている学習書とか学習帳とかいうものが、各専門の教員間の研究会で行った諸成果の内から、事実上校長が採用方を決定して、之を出版屋に出版させることになっているものだそうで、そこから校長と出版屋と乃至は其の間に介在する小利権屋との間に金銭上の又饗応上の醜関係が生じたということが、この問題の糸口である。
 研究会の成果が学習書という商品の生産に直接関係して来るとすれば、出版屋は当然、その研究会の成員なり又特にはその成果の編集責任者なりと、人間的好みを通じるのは、商業上又社交上の道徳で、大抵の出版屋は著者に御馳走位いはすることになっている。だから、研究会の後で教員達が遊興に誘われたり、校長が御馳走になったりすることは、別に変った風習でもないようだ。校長が収賄したと云っても、例の学習書を出版させるのに、どの出版屋を選ぶべきかという問題の決定ならば、同じことなら、金離れの良い出版屋を選ぶに越したことはあるまい。これはどの村に鉄道を通すかということを決定する場合とは全く違った場合で、鉄道のように変に曲りくねった内容の学習書にならない限り、なぜこの「収賄」が悪いのか、よく考えて見ると判らなくなる。
 収賄によって内容が歪曲されたとするならば、それは由々しい大問題であるが、併しそれは同時に極めてデリケートな問題で、それに、そういう問題を問題にするなら、何もわざわざ小学校の参考書などに眼をつけなくても、大学や高等文官試験の参考書に眼をつけた方が、着眼点が堂々としているだろう。
 検挙された或る校長は、皆が今迄習慣的にやって来たことで、大して悪いこととも思わなかったと述懐しているそうだが、案外これは、世間の偽善家達に対する頂門の一針になるかも知れない。小学校の校長さんだから先生だからと云って、何も超人間的な特別な人格者である理由はあるまい。そういう怪物に私の子供などの教育を任せるのだと、私は一寸考えざるを得ない。清廉とか金銭に恬淡だとかいう徳性は良いかも知れないが、師範学校の卒業生が皆清廉で恬淡な人格者でありそうだと仮定しているのは最も不真面目な迷信だろう。道徳はもう少し真面目に、上っ調子でなく、考えられなければならない。
 本当に問題になるのは、校長が収賄したとかしないとかいう道徳問題ではなくて、学習書という一種の物質の存在の問題なのである。一体何のために、絶大な権威のある「国定」教科書の外に、そうした準教科書が必要なのかというと、どうも問題は、中等学校入学の問題にからんでいるらしい。男の場合で云えば、官立の高等学校や専門学校へ卒業生が沢山入学するのが良い中学校で、そういう中学校に余計入学させることの出来るのが、良い小学校となっているが、そういう良い小学校を造り出すために、わが学習書の存在理由があるわけで、人類の教育の一手引き受け人である小学校校長が、この学習書のために身を誤ったということは、或いは本望であるかも知れぬ。こういう「職責」のためならば、小学校の先生は学習書事件ばかりではなく、まだまだ色々の「不正」をやっているので、例えば秘密な補習教育とか準備教育とかによって、思いがけない莫大な収入を月々勘定に入れている先生は到る処にあるだろう。
 労働者は仕事がないから怠けざるを得ないが
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