生式常識で判らないものが、即ち赤いことだと推論することは自然だろう。赤いということは多分こういうことなのだろうと、事法律の世界に関する限り、一寸連想を逞しくするのは無理ではない。で、こういう仮定さえおけば(尤も之は事実に当っていないかも知れないが)、この点は一応理解出来る、だが依然判らないのは文部大臣の権威の行方である。――文相の権威が一寸でも弱みを見せると、世間の噂好きな連中はすぐ、背後にファッショの手があるとか××の後ろ立てがあるとか、不謹慎なことを云い始める。この頃の世の中は全く困ったものだ。
 威厳も自分の身から出たものでないと、一向身に付かないもので、付け焼き刃の威厳の持主は、その目つきが不安そうにキョロキョロするものである。処で実際、文部省が滝川教授罷免の理由として挙げる処は、いつもキョロキョロと一定しなくて落ち付かない。時には漫然と赤いからだと云って見たり、時には内乱罪や姦通罪が普通の犯罪でないと云うから悪いと云って見たり、著書が悪いからと云うかと思えばどこかでやった講演が悪いからとか、大学での講義が悪いからとか、云って見たりする。併し、漫然と赤いから悪いというのでは、田舎の父親や下宿のおかみにとっての説明になっても、まさか文部大臣の口から天下に向って声明する説明の理由にはなるまい。内乱罪が普通の犯罪と同一には待遇出来ないというのが悪いというと、新聞の社説(東京朝日五月二十一日付)や京大法学部の少壮職員団から(その声明書)、海相や陸相でも×・××××に就いてそう云っているではないかと云われるし、姦通罪に就いては東大教授男爵穂積博士の最近の著書『親族法』にそのままあるではないかと云われる。著書が悪るければ内務省が発禁にすれば好いので、文部省がその著者を首にする理由にはならぬと云われるし、講演が悪るかったと云えば、それはすでに前から出版されて広く読まれている著書と同一内容だったに過ぎぬと云われる。
 それから大学での講義が講義として好いか悪いかが、一体国務大臣に判定出来るかと質問される。而も、「頭の悪い人には罷めてもらわねばならぬのと同じことだ」などと下手なことを云うから、引き込みが益々付かなくなるわけで、教授としての頭の善い悪いは一体教授会が判定しなければならないことだ。処が現に、法学部教授会は全員一致で、滝川教授が赤くもなければまして頭が悪いなどという
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