をさえおいて、発禁を命じた(?)のである。凡そ一国の大臣たるものは、須らく之だけの落ち付きと見識とを持っているべきだろう。
文部大臣のこの見上げた態度に較べて、文官高等分限委員会の態度は、何と不見識で軽はずみなことであるか。滝川教授の罷免という、社会的には輿論の対象となり法制的には疑問の焦点である処の、この困難な問題を、文部省がディクテートするままに、禄々調査もしないで即日安々と鵜呑みにして了ったのでは、どこに委員会の権威があるだろうか。況して文部大臣は、委員会が開かれる前から、委員会を××するに決っているような変な口吻を洩らしていたが、あれは何として呉れるのか。
文部大臣の権勢正に恐るべきものがあるのである。――処が、世間の噂によると、上には上があるもので、当の××××が中国地方の某代議士によって動かされているというのである。××××の折角の名誉のために、そういう事実はないのだと信じるが、併し噂のあること自身は事実だ。その噂によると、その某代議士が滝川教授の著書か講演かに、どうしたハズミからか、興味を持って、之こそ赤化思想であると云って、パンフレットまで造って、六十四議会で策動したということである。文部大臣はその見識と落ち付きにも拘らず、何故だか[#「何故だか」は底本では「何故だが」]、そういう教授は必ず処分すると即答して了ったので、決して約束を破らないわが卓越したこの政党人大臣は、その約束を只今道徳的に履行しているのである、と。なる程そうして見ると、文相のこの道徳美談の犠牲者が、他の何人でもあり得ずに、特に滝川教授でなければならないわけが、少しは理性的に理解出来る。だがそうすれば、理解出来なくなるのは、文相のかの見識と落ち付きがどこへ行ったかという点だ。
某代議士がなぜ滝川教授を選択したかは、本当の処は判らないにしても、一つの仮定を置けば想像上はよく判る。教授は法律学者であり法律の中でも特に切実な刑法の学者だ。処で滝川教授に取って不幸なことは、大抵の代議士という種類の人間が法律書生上りだという事実である。彼等代議士は法律の常識はやや自分の専門だと思っている。彼等は何が赤い[#「赤い」に傍点]ことで何が赤いことでない[#「ない」に傍点]かは科学的に認識出来ないが、彼等の法律常識によってうまく消化出来ないものと出来るものとの区別は認識できる。そこで自分の法律書
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