か、司法省と××との対立云々と噂した。そこで法相はこう云って断わっているのである、「……に就いては種々な議論もあって中には陸海軍と司法省の意見が対立正面衝突でもした様に伝えるものもあるが、さようなことは全然ない」云々(東京朝日五月十一日付)。
無論そういうことはあり得ない筈である。あったとしたら頗る変なことだろう。処がそんな変なことがまことしやかに噂されるということは、だから、二重に変なことでなければならないわけだ。どうも薄気味悪いことである。
五・一五事件の「発表」のおかげで、吾々は五・一五事件が益々判らなくなって来た。懐疑論や不可知論が昂進して来ると、一種の妖怪談になってくる。お互い様に薄気味悪くなるのである。
二、文部大臣の権威
国際競争に限らず、勝負は機会均等でなければならぬ。二回戦で二対〇の勝利率のものでも三回戦では三対〇とも二対一ともなることが出来るのだから、三対〇をも二対一をも二対〇だと云って片づけて了うのは不合理である。六大学リーグ戦も今年から一様に三回戦までやることになったそうであるが、それは数学的に非常に慶賀すべきことである。新進の秀才文部大臣の何よりもの歴史的大功績があるとすれば恐らく之だろう。多分この点は又、日本中の有識者が斉しく認める処だろう。
だが文部大臣たる以上、たかがスポーツの問題などに跼蹐《きょくせき》してはいられない。私は先月の本欄で、文部省が内務省などに引き廻され気味で、わずかにスポーツ干渉を以て憂さを晴らしているのを、文部大臣のためにお気の毒だと云ったのだが、今は文部大臣の名誉のために、之は失言として撤回する。文部大臣は内務省などから引き廻されるどころではない、わが文部大臣は、内務省に命じて、滝川教授の著書『刑法読本』を発禁にさせたのだそうである。(東京朝日五月二十一日付)。
之はJOBKで放送したものを出版したもので、去年の六月ほんの僅かな削除の後に発売を許された本だが、内容は素人の吾々にとっては非常に自然に変な無理がなく能く呑み込めるし、口絵には一枚の美人の写真さえ付いていると云った風で、まことになごやかな著書だという印象を消すことは出来ない。処がわが秀才文部大臣の卓越した頭脳は、BKのコセコセしたスイッチや逓信省の老婆心や内務省の無表情な警察眼をも洩れたこの本に、ニコニコしながら、而も悠々と一年間の間
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