方に就いて、司法省と陸海軍両省との間に、初め、不思議にも、見解の対立があったそうである。司法省の意向としては、従来の「お役所型を破って」、相当具体的に諸データを指摘するというやり方で公表しようとしたのであるが、××××からは、之に対し或る修正案が提出されたそうである。
 司法省のような公表の仕方をすると、予審が決定しただけでまだ本式には確定していない犯行事実をば、確実の事実であるかのような印象を与える仕方で発表する結果になりはしないか、それでは、外のことはとにかく、××××の威信を傷ける惧れがある。そう陸海軍省側は故障を持ち込んだそうである。もっと抽象的な発表形式を採用しろというのが司法省案に対する修正案であったらしい。
 こうやって「三省合議」の上で修正されたのが、今度公表された内容だとすると、多分それは、採り得べきであった具体性に較べて、まだまだ抽象的な形態に止まっているものに相違ない。なる程諸事実・人名・場処・時日・行動・其他のデータは立派に公表されているのだから、相当具体的だと云えば具体的だが、どうも吾々国民は、この頃馬鹿に疑い深くなっているので。
 なる程、誤謬の可能性が、現実に期待され得るような場合には、あまり立ち入り過ぎた「具体的」事実を云々すると、認識を誤らせるかも知れない。だが予審調書の場合の如きは、権威ある根拠によって立っているのだから、誤謬の可能性が現実とは期待され得ない筈ではないか。もし少しでも誤謬であるかも知れないような予感があるなら、予審は決定される筈がない。処がこうした予審で決定された「事実」を抽象的に発表しなければいけないというのはどういうわけなのであるか、それは吾々人民には判らないことだ。
 抽象的知識は必ず認識不足を産むものである。この唯物論のテーゼはこの頃日本帝国が国際的に専ら宣伝に力めている真理だ。認識過剰も困るが認識不足はなお更困る。処が今の場合は、認識不足よりも認識過剰の方が困るのだそうである。国際的には認識不足、国内的には認識過剰。難きものは認識なる哉。
 処がまだ一つ判らないことがある。常人側の被告を受け持たされた司法省側は、被告に内乱罪を適用する必要を認めず、単に殺人・殺人未遂・爆発物取締罰則違反・という罪名を付けようとするのであるが、陸海軍側は軍人被告に対して反乱罪を以て臨もうとする。之を聴いて世間では一時、何故だ
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