ことは到底あり得ないことを、主張している。
 こういう時のためにと思って、大学官制の内に、わざわざ「人格の陶冶」という項目を後から※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入しておいたのに、折悪しく滝川教授は放蕩もして呉れなければ喧嘩もしない。而もよく冷静に考えて見ると、大学教授の場合に於ける人格は、何よりも真理探究に対する誠実の内にこそあったわけで、それが学生の教育に対しての何よりの人格的影響を意味するわけだが、京大学生は滝川教授の非人格さを非難し始めるかと思うと、それとは全然反対に、教授に対して無やみに師弟の情の切なるものを感じているらしい。こういう真情には、文部大臣たるもの、素より「動かされ」る義理があるわけだから、嫌でも学生代表に面会しなければならない破目にまで陥って了う。
 そればかりではない、京大法学部教授団は文部省に対する批判を意味する処の声明書を発表している。それによると、第一に総長の具状を待たずに大学教授を罷免すべく分限委員会を開いたことが、帝国大学官制に対する純然たる違法であり、而も沢柳事件で京都帝大の不文律として天下に認められた処の、総長の具状は教授会の協賛を必要とするという習慣法を無視することも、不法だというのである。一体今日では伝統を無視するということそれ自身がすでに危険思想ということになっているが、時の文部大臣奥田義人が認めた京大の模範的伝統を蹂躙することは、文教の府として、それ自身引け目を感じることである。まして勅令違反の嫌疑まで受けては、文部省もジッとしてはいられないだろう。法制局に相談して見ると勅令違反にはならないそうだが、京大の法学部全体が一人残らず違法だと云っているから、世間の無知な蒙昧な人民達はどっちの言い分を信じるかあてになったものではない。
 人から借りて来た権威というものはツクヅクあてにならないものである。ドンなに身辺を見廻しても、思わしい合理的な論拠は見当らない。だから京大法学部に対する反対声明書などは、なまなか出さない方が好いだろう、ということになるのである。
 理由を挙げたり声明書を発表したりするのは、理論だが、文部省はどこにも合理的な理論を見つけ出すことが出来ない。――だが政治には、別に理論などはいらない。理論は抜きにしても有力な説得力のあるものがある。×××はそういうことをチャンと
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