他の被告達に対する判決云い渡しがあった。特に私鉄事件に関しては、小川平吉其他の巨頭が無罪を云い渡されたのに対して、検事局は職業柄、控訴すると云って力こぶを入れている。だが世間ではそんなことはどうでも好いのである。この不名誉な英雄達を世間は頭から問題にしていない。彼等は全く人気のない惨めなうらぶれた主人公達である。わずかに、みずから青天白日の身をいとおしむのが精々だ。悪事を働いたり働こうとしたらし[#「したらし」に傍点]かったりする者が不幸になるのは、素より××の××たる所以である。
 所が之に反して、五・一五事件の巨頭達は、今度の発表に際して、単にジャーナリスティックに中々華かで人気があるばかりではなく、特に×××の被告達の如きに到っては、軍部大臣等自身の口から、正義の憤激に燃えたその心事を、痛く××され又××されてさえいるのである。前の収賄事件の英雄達に較べて、この×××は何と幸福なことだろうか。彼等は尽く「人格者」だそうであるが、人格者が多少でも幸福になるということは、之又××の××たる所以でなければなるまい。
 収賄などという犯罪と、政治上の確信犯とでは、少くともこの位の社会的待遇の相違があるのは、当然だと一応私はそう思うのであるが、併し、それは例の滝川教授の説の一部を支持することになるわけだから、恐らく間違っているのだろう。
 よく考えて見ると、実際に、この考えは間違っているらしい。その証拠には同じく政治上の確信犯だと云っても、例えば之が左翼の諸事件の主人公達だったとすると、「社会の通念」から云って、収賄罪の主人公達よりも、もっともっと社会的に虐待されることは当然なことなのである。「人格の陶冶」の足りない人間が、一等みじめな眼に合わされねばならぬということは、之又××の××たる所以と云わねばならぬ。
 今度の五・一五事件の発表を見ていると、とにかくファッショの「××」×はうらやましい程幸福である。少くとも彼等は、こんなに同情に富んだ根本的には出来栄えの至極良好な社会の手によって、「処罰」されるのに、決して悪い気持はしないだろうと思う。
 だがこう云って、何か判ったように説き出したのではあるが、実はどうも判らないことばかりなのである。五・一五事件の大体の道筋は、世間の誰もが既に知っていることで、今回はそれが多少具体的に整理されて紙上で発表された迄なのであるが、
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