てマルクス K. H. Marx によって用いられ、爾来今日に至るまでこの言葉の有つ意味の一部分をなしている。
(二)[#「(二)」は縦中横]マルクスはドイツのヘーゲル左派の社会主義乃至唯物論者・無神論者が、結局一種の哲学的空言家であって、社会の現実的革命にとって殆ど全く無用であることを示すために、フォイエルバハ L. A. Feuerbach(1804−72)・バウアー B. Bauer(1809−82)・シュティルナー M. Stirner(1806−56)・グリューン 〔K. Gru:n〕(1813−87)等に対する批判を展開して之を「ドイツ・イデオロギー」と名づけた。今日我国などでイデオロギーと呼ばれる観念は主としてここに由来する。これは前述の云わばフランス・イデオロジーに対比してドイツのイデオロギーと呼ばれたもので、イデオロギーとはここでは一種の誤謬又は虚偽な意識を意味する。だがマルクスがここで同時に意味する所は、一方に於てこの虚偽意識が主として社会の問題に関する社会意識であると共に、他方に於て一定の社会的原因によって発生した社会意識のタイプ[#「タイプ」に傍点]だということを暗黙の間に想定している点にある。
こうした虚偽な社会意識の類型の常として、この意識は一方に於てその誤謬を自覚し得ないと同時に、他方に於てその誤謬を自覚することを決して欲しない[#「欲しない」に傍点]。だからこれは単なる誤謬ではなくて正に虚偽であり、而もただの嘘とは異って一人又は数人の個人が故意に偽った結果であるとは限らないので、却って社会の多数者によって支持される結果それが嘘であることを自覚し得ないような虚偽である場合が極めて多い。主に社会に関する虚偽なのだから、社会に於ける政治的関心によって動機づけられがちであるため、群集心理や社会に於ける支配権威に動かされる場合が甚だ多く、純論理的・科学的・理論的・理性的であるよりも先に、先論理的・情意的であることをその特色とする。
(三)[#「(三)」は縦中横]右のような虚偽意識としてのイデオロギーの他に、マルクスはもう一つの規定を与えている。『経済学批判』の序論に於ける唯物史観の公式の条に見られる社会の上部構造としてのイデオロギーの観念がそれである。人間の意識が存在を限定するのではなくて、逆に社会的存在が人間の意識を限定する。と云うのは社会の物質的な現実的な地盤である生産関係が、終極に於て社会に於ける人間の意識の形態を決定するのである。この際前者の物質的地盤が社会の下部構造で、後者の意識の形態が社会の上部構造と名づけられる。そしてこの上部構造がイデオロギーと呼ばれるのである。マルクスは之をイデオロギーともイデオロギー的形態とも呼んでいるが、元来イデオロギーはイデア(観念)の理論という語の意味であったことを参照して、我々はこの際社会の上部構造としてのイデオロギーを観念形態と訳すことが出来る。この訳語は相当行われている。
次に上部構造(観念形態)と前の虚偽意識との二つの意味の間の関係であるが、相反した主張を有つ二つの観念形態はお互に他を虚偽意識と見做すのを常とする。所が観念形態の内には社会の下部構造を忠実に反映したものもあり得るわけで、そうしたものは実は虚偽意識に対比して却って真理意識の資格を有つことが出来る。マルクス主義に於てはブルジョア・イデオロギーや封建的イデオロギーは現代に於ける虚偽意識を意味するが、之に反してプロレタリア・イデオロギーは正に真理意識を意味する。イデオロギーという語の意味がもつ真理意識と虚偽意識とのこの対立は、云うまでもなく社会階級上の対立を意味する。イデオロギーは従ってこの際、思想・観念・意識・真理、其他の社会的な階級性質を意味するわけで、今日文学や科学に就てイデオロギー性と云われているものは、この階級的性質乃至階級政治的特色を指す。
【イデオロギーと教育】 前述の最後の意味に於けるイデオロギーが教育に於て占める役割は絶大である。教育が一定の階級乃至国家、或は階級的社会の支配の下に行われる時は、その標榜する教育理想や教育方針の如何に拘らず、実際に於ては、良い意味に於ても悪い意味に於ても、イデオロギー教育であることを出でない。この点、所謂修身教育・公民教育・徳育・精神教育、其他に於て極めて顕著であるが、それだけではなく、一般的な所謂知育・職業教育・産業教育・技術教育、其他に於ても根本的な影響を有っている。支配的勢力が教育に於て採用するイデオロギーが、虚偽意識であった場合(そしてこれは今日極めて普通に存する場合である)、その教育が真理と原則的に全く無関係であることは不可避な必然なのである。
【イデオロギー論】 史的唯物論によるイデオロギーの概念を模倣したものは知識社会学乃至文化社会学による「イデオロギー論」である(マンハイム K. Mannheim やフライアー H. Freyer 等)。マンハイムは、歴史の推移に於て存在が意識を追い越した場合をイデオロギー、その逆の場合をユートピアと呼んでいる。
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文献――A. Bogdanov[#「A. Bogdanov」は斜体], Die Entwicklungsformen der Gesellschaft und Wissenschaft, 1913(林房雄訳『社会意識学概論』昭和五年)。K. Mannheim[#「K. Mannheim」は斜体], Ideologie u. Utopie, 1929. K. Marx[#「K. Marx」は斜体], Die Deutsche Ideologie, 1845−46, hrsg. von Marx−Engels−Lenin Institut[#「Marx−Engels−Lenin Institut」は斜体], unter Redaktion von V. Adoratskii[#「V. Adoratskii」は斜体], 1932(唯物論研究会訳『ドイツ・イデオロギー』三冊、昭和十―十一年); Zur Kritik der politischen Oekonomie, 1859, hrsg. von K. Kautsky[#「K. Kautsky」は斜体], 1924(河上肇・宮川実訳『政治経済学批判』昭和六年); besorgt von Marx−Engels−Lenin Institut[#「Marx−Engels−Lenin Institut」は斜体], 1934. G. Salomon[#「G. Salomon」は斜体], Historischer Materialismus und Ideologienlehre, ※[#ローマ数字1、1−13−21](Jhrb. f. Soziol., ※[#ローマ数字2、1−13−22], 1926). M. Scheler[#「 M. Scheler」は斜体], Die Wissensformen und Gesellschaft, 1926. H. O. Ziegler[#「H. O. Ziegler」は斜体], Ideologienlehre(Arch. f. Sozialwiss. u. Sozialpol., 1927)。新明正道編『イデオロギーの系譜学』第一部(昭和八年)。戸坂潤『イデオロギー概論』(昭和七年)。【本全集第二巻所収】
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[#中見出し]仮説 【英】hypothesis; supposition; assumption【独】Hypothese; Voraussetzung【仏】〔hypothe`se〕; assomption[#中見出し終わり]
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【一般的意義】 この言葉の古典的な意味は、「下に置く」であり、根柢に置くとか根柢を置くとかいう意味である。根拠・理由を与えるものの謂であり、推理・理論・学を成立させる原則を一般に指す。併し特に実証科学乃至自然科学に於ける仮説は、既成の諸経験的事実を統一的に、必要にして充分な形で、説明し得るように案出された或る仮定を云う。これはまだ実験的に検証され実証されない仮定であるから、臆説とも呼ばれる。かかる仮説は科学の前進によって、実験的に検証されて行くべきものであり、その検証が成功すればこれはもはや仮説ではなくて一つの事実の資格を得るが、この検証によってこの仮説に反する結果を得るならば、云うまでもなくこの仮説は捨て去られねばならない。そして更により合理的な新しい仮説を必要とするに到る。仮説はかくの如くして、科学的研究の途上に於て仮に設けられる仮定の意味を失うものではない。
併し云うまでもなく科学に於ける仮説は決して主観的な任意的な又は便宜的なものではない。何故ならばこれは常にやがて実験的に検証されることを必要としているのであって、これが実験的検証の必要は、科学の対象界に於ける実在的関係を何等かの形で言い表わしたものであるからである。科学は探究する世界自身の客観的関係の一表現である限り、仮説は単に主観的なものではあり得ない。のみならずこれは与えられた既成の知識を根柢的に組織立てる筈のものであるから、無論決して任意的なものではなくて、何人もその段階に於ては認めねばならぬ筈の客観性を有っている。そして又、それが単に研究の便宜のために一時的に採用されたという意味にすぎないことも当然であろう。仮説は常に実験的にそれが真理であることを実証されることを要求している。即ちこれはまだ実証されるには到らぬにしても、多分やがてはその真理たることが実証されるだろうと希望する合理的理由を持っているのであって、その限りに於てこれは単なる便宜ではなく一種の客観的な真理に属する。
【作業仮説】 単に研究の便宜だけのために設けられた仮説は作業仮説 working hypothesis と呼ばれ、研究の便宜のために役立ちさえすれば目的を達するのであって、それ自身が客観的真理を表現するものであるか否かは問題でない。従って之の実験的検証も亦必要ではないし又無意味でさえある。
【仮説と理論】 本来の意味に於ける仮説は、客観的真理の一表現である限り、一種の客観性と真理とを有っていることは忘れられてはならないが、併し又他面に於てそれが何と云っても主観の産物であり而も主観の主観的案出による産物であることに変りはない。この意味に於ける主観性は仮説の免れない特色をなす。ポアンカレ 〔H. Poincare'〕 などは、仮説を或る部分的事実認識からの拡大・拡張だと考える。特定の経験的事実を、思考的に一般化することによって、他の経験的諸事実をもその一般物の上に含ませようとするのが、仮説構成の目的でありまた手続であるという意味である。仮説を今、このように経験的事実の一般化だとすれば、我々は仮説なるものが理論に於て演じる役割に注意せねばならぬ。なぜというに、理論こそ恰も、経験的事実を一般化し普遍的な場合にまで拡大・拡張したものであるからである。
理論は経験的諸事実から抽出され抽象された所のものであるが、理論も亦やがて実験的検証を受けることを要求する義務と権利とを有つ。この点理論なるものと仮説なるものとの間には殆ど何等の区別がない。ただ科学に於ける理論は何等か特殊の仮定なしに、全経験的事実を統一的に説明し得る又は得そうに思われる所のものを指すのであって、これがなお何等か特殊の仮定を置いてしか許されない場合に、その仮定が仮説に他ならない。故に仮説とは、経験的事実から一般的理論(原則)を抽出導来するに際して、まだそこに理論上多少の偶然性が横たわっているような段階に、必要に応じて発生する所のものであって、理論への途の恐らく不可避な一中間段階に他ならぬと云うことが出来る。燃素説・光粒子説・原子論又原子小太陽系説・エーテル等々はかかる性質を有った仮説であった。
所でまだ理論としての充分
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