ネ必然性を有たず、理論的に偶然性を含んだ段階に仮説が発生すると云ったが、この偶然性は多くは広義に於けるモデルの利用となって現われる。と云う意味は、理論的説明を仮託するものとして、多くの場合我々は、人間が日常経験しつつある所の影像 Bild を用いるものであり、特に視覚に訴える像を選ぶものであるが、事実の理論の譬喩的説明は多くかかる直観像に訴える。この譬喩的直観像がもはやその譬喩的意味を脱却して、説明されるべき事実そのものに本質的な直観像と考えられる時、それがモデルなのである。燃素説・光粒子説・原子論、其他に於ける微小粒子の直観や、波動の直観や、ボーアの原子理論に於ける太陽系的直観像などは、凡てこうしたモデルである。理論はこのモデルを用いて各種の経験的現象を説明するのを普通とする。(但し最近の物理学に於ては直観像モデルが成り立たないような理論が必要になったと云われる。つまり空間的時間的な表象ではこの理論にモデルを与えることが出来なくなったと云われる。)かくモデルは仮説と直接関係を有っている。
物理学に於けるエーテル仮説は極めて特色がある。これは物理的認識の極限を意味する(質量の極小無・抵抗の極小無等々)。だからこれは物理学的仮説としては慥《たしか》に無理な内容のものではあるが、経験的事実と理論的認識との連絡づけが仮説であるという意味を偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》よく物語っている。つまり理論を経験の極限として導き出すわけだからである。因《ちなみ》に仮説が哲学体系乃至認識方法に於て占める意義を最も重視したのはコーエン H. Cohen である。彼によれば仮説とは経験へ根柢を与えることだ。認識はこの根柢から生産される。この生産点が、所謂極限や微分と呼ばれる所のものだという。
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[#中見出し]技術 【英】【仏】technique【独】Technik[#中見出し終わり]
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【意義】 技法・手法と呼ぶべき場合もあり、技能と呼ぶべき場合もあり、又技術学又は工学・工芸・工芸学と呼ぶべき場合もある。併し此等のものは夫々区別されねばならぬ。
(一)[#「(一)」は縦中横]技術と技法 最も本来的な意味に於ける技術は技法又は手法から区別される。技術とは本来、物質的生産の技術のことであり、一般に非生産的な技術又は観念生産の技術(例えば創作技術)たる単なる技法や手法は、この技術の観念のアナロジー・拡大・応用・其他と見られねばならぬ。
(二)[#「(二)」は縦中横]技術と技能 この物質的生産の技術は、物質的生産の技能と其他の技術部分とを含んでいる。元来物質的生産は物質的生産力によって営まれるのであるが、この生産力には人的要因たる労働力と物的要因たる労働要具の体系とが含まれる。所でこの労働力の一つの資格が技能であり、この労働要具(機械・道具)の体系が其他の技術部分である。
技能と機械体系とは併し分離して考えることは出来ない。機械体系は人間の機械的な直覚・熟練・其他を基準として設計されると共に、逆に如何なる機械体系が社会的に存在するかによって人間の技能は歴史的にその性能を強制される。だがこの際技能の方は労働条件の如何によってはその分担が労働力にとって一応自由であるに反して、機械体系の方は物質的必然性によって労働力を強制するから、終局に於て機械体系が技能を決定すると云わねばならぬ。併しこのことは機械体系と技能とが全く別な二つの現象であるという事実を蔽うものではない。この全く異った二つの現象が同じく技術と呼ばれる。二つのものを媒介する概念としての技術は、社会に於ける技術水準とも云うべきものだと想像される。この点まだ定説がない。
(三)[#「(三)」は縦中横]技術と技術学 かかる物質的生産の技術は技術学(工芸・工芸学・工学)と往々混同又は同一視されているが、二つの言葉は区別して使用される必要がある。社会の技術的水準とも云うべきものが技術で、それと結びついていた機械体系としての技術に関する科学が技術学なのである。
【経済的・社会的範疇としての技術】 一般に技術は人間の社会生活が直接自然と結びついた領域に成立する。だからこれは一方に於て自然に属すると共に他方に於て社会に属する。自然に属する限りに於て技術は自然科学と不離な関係に立つ。技術乃至技術学は自然科学の母胎である。社会に属する限り技術は経済と不離な関係に立つ。機械も決して単なる自然科学的・技術学的範疇ではなくて、経済的・社会的範疇である。
併しこのことは技術(まして機械)が社会の根柢であることを結果しない。社会の根柢は物質的生産力であるが、技術は少くともこの生産力の一部分にしか過ぎなかった。従来技術の哲学なるものが少くないし(例えばデッサウアー F. Dessauer)、テクノクラシー technocracy などもあるが、それがどれも技術至上主義である限り科学的認識とは云えない。だが技術が単に人間の物的生活に対してだけでなく、人類のもつ諸観念に対して如何に根本的な限定力をもつものかという点を注目しなくてはならぬ。技術から完全に切り離された観念・思想・哲学は終局的な客観性と通用性とを有つことが出来ないのが事実だからである。
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文献――K. Marx[#「K. Marx」は斜体], Das Kapital, Bd. ※[#ローマ数字1、1−13−21], 1867. M. Rubinstein[#「M. Rubinstein」は斜体], Science, Technology, and Economics under Capitalism and in the Soviet Union, 1932. W. Sombart[#「W. Sombart」は斜体], Krieg und Kapitalismus, 1913. A. Espinas[#「A. Espinas」は斜体], Les origines de la technologie, 1897. 〔Beitra:ge zur Geschichte der Technik und Industrie〕, hrsg. v. K. Matschoss[#「K. Matschoss」は斜体], 1909−. O. Spengler[#「O. Spengler」は斜体], Der Mensch und Technik, 1931. F. Dessauer[#「F. Dessauer」は斜体], Philosophie der Technik, 1927.
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[#中見出し]社会科学 【英】social science【独】Sozialwissenschaft【仏】science sociale[#中見出し終わり]
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【歴史的概観】 広汎な意味に於ては社会に関する理論乃至科学を指し、主としてギリシアにはじまる。その第一の形態は政治学[#「政治学」に傍点]であり(プラトン・アリストテレスにはじまり今日に及ぶ)、第二の形態は経済学[#「経済学」に傍点]であり(ギリシアに於ては家計理論であったものが十六世紀以来今日の経済学の形をとるようになった)、第三の形態は、歴史記述[#「歴史記述」に傍点]であり(ヘロドトス 〔He^rodotos〕・トゥキュディデス 〔Thoukydide^s〕 に始まる)、第四の形態は法律学[#「法律学」に傍点]である(但しこれはローマに発する)。十九世紀の初めに至る迄、この種の諸形態が混合して漠然と社会科学と呼ばれた。それは歴史哲学乃至社会哲学とあまり区別を持たない。だが近代科学的な社会科学は二つの方向に分離した。一つは人類学[#「人類学」に傍点]・犯罪学[#「犯罪学」に傍点](ベッカリーア C. B. Beccaria)、更に特に社会学[#「社会学」に傍点](コント)であり、一つはマルクス主義的社会科学[#「社会科学」に傍点]である。マルクス主義的社会科学は、サン・シモン C. H. de Saint−Simon・フリエ F. M. C. Fourier・オーエン等のユトーピア社会主義から発達して、科学的社会主義として成長した。
社会学[#「社会学」に傍点]が一般に諸社会現象の形式的乃至現象的な体系を組織するに対して、マルクス主義的な(厳密な意味に於ける)社会科学[#「社会科学」に傍点]は諸社会現象を貫く内容的実体的な本質を組織する。
【社会科学の構成要素】 厳密な意味での社会科学として今日広く承認されている殆ど唯一のものはマルクス主義によるそれであり、史的唯物論[#「史的唯物論」に傍点](歴史の唯物論)即ち唯物史観[#「唯物史観」に傍点]である。唯物史観には三つの契機が含まれている。(一)[#「(一)」は縦中横]唯物論[#「唯物論」に傍点]。これは十七乃至十九世紀のイギリス・フランス・ドイツの支配的な近代哲学の一つに淵源する。(二)[#「(二)」は縦中横]弁証法[#「弁証法」に傍点]。これは近世ドイツ古典哲学の結論である。(三)[#「(三)」は縦中横]歴史観[#「歴史観」に傍点]。これはイギリスの古典経済学とフランスの社会主義理論となって現われたもの。この三つの契機をもつ史的唯物論は所謂自然弁証法[#「自然弁証法」に傍点]と合わせて、弁証法的唯物[#「弁証法的唯物」に傍点]論をなすものであり、一般に漫然とマルクス主義の理論と呼ばれるものの内容をなす。
【社会科学の方法】 まず社会科学は社会をその歴史的運動に於て観察分析する。社会とは常に歴史的社会の謂でなくてはならぬ。この社会の歴史は併し、単に人類の文化の歴史として始まったのではなくて、自然自身の歴史的(自然史的・博物学的)発展の結果発生したものに他ならぬ。故に恰も自然科学者が自然の歴史を博物学的に研究するように、社会科学者は社会の歴史を自然史的に研究し得なければならぬ。こうして初めて、社会の認識は科学的となる(人類社会の自然史)。併しこのことはすでに、社会の歴史の唯物論的分析と弁証法的分析とを想定している。従来の非理論的な社会史は、歴史的現象の単なる発生消滅を羅列し乃至適当に区分するか、そうでなければ、終局に於てこれを人類の精神乃至観念の展開・発達・変遷の結果として説明する態度を抜け出なかったと云っていい。社会の自然史は之に反して、社会の歴史的展開を社会の現実的な物質的地盤から説明する。社会の物質的な発展が社会全般の歴史的発展の終局原因として発見される。ここに社会の自然史が唯物論[#「唯物論」に傍点]を分析方法とする所以がある。所が更に、社会を如何に自然史的に分析すると云っても、社会は云うまでもなく自然とは別である。社会は物質的自然の歴史的な物質的な発展であるが自然自身とは異った発展段階に属する。それ自身の発展がそれ自身とは異った新たな性質を生み出すという、事物の歴史的発展の事実が、一般に唯物論的な弁証法[#「弁証法」に傍点]なのである。そこで社会の自然史とは、社会の弁証法的発展を想定して初めて意味を持つことが出来る。社会の自然史の分析方法は又、だから弁証法(形式論理[#「形式論理」に傍点]に対す)でなくてはならぬ。
歴史的社会の唯物論的弁証法的分析方法が社会科学の一般的方法であるが、注意すべきはこの方法の出所自身が、他ならぬこの歴史的社会という存在そのものが物質的で弁証法的であるということにある点である。唯物論的弁証法的方法の強みの一つは、この方法自身が事物の物質的弁証法的性質の避くべからざる結果だということである。この方法の強みは而も、歴史的社会の社会科学的分析に際して最も判然と現われる。
【社会科学の内容】 社会科学的分析によって明かになる主な点は、第一に社会の活きた動的及び静的な構造である。社会科学によれば、歴史的社会の基
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