スめに計り知れぬ功績を立てた。彼は再びレーニンと共に一方に於ては党内の経験批判論者に対して、他方に於いては党清算主義者に対して、奮闘を続けた(レーニンの『唯物論と経験批判論』は一九〇九年に出ている、そしてプレハーノフの『マルクス主義の根本問題』は一九〇八年に出た)。特に当時依然として、メンシェヴィキの権威であった彼が、メンシェヴィキとして止りながら、メンシェヴィキの党清算主義者に対して破壊的な演説を敢行したことは、レーニン等ボルシェヴィキにとっては百万の味方に値したことである。ボリシェヴィズムへの彼の接近は一九一二年まで続いたと見ることが出来る。
然るに欧州大戦に臨んではプレハーノフは極端なる社会愛国主義的立場を取り、一九一七年の三月革命を経てもその立場を棄てなかった。彼は死に到るまでソヴィエト権力を承認しなかったのではあるが、十月革命(一九一七年)の成就した後はボリシェヴィキ及びソヴィエト政府に対して公然の敵として現われることを躊躇した。一九〇五年(党ボリシェヴィキ第三回大会・メンシェヴィキ第一回大会の年)以来、『ロシア社会思想史』の著述に取り掛り、一九一四年第一巻を出版したが、この書物に於ける研究方法の中にすでに、何故彼が祖国防衛主義者とならねばならなかったかが暗示されているとも云われている。
上記以外の労作は多く Neue Zeit 誌上に発表されたが邦訳となった著述は『階級社会の芸術』(蔵原惟人訳)、『芸術論』(外村史郎訳)、『文学論』(外村史郎訳)、『マルクス主義宗教論』(川内唯彦訳)等である。何れもマルクス主義的文化理論の典型と看做される。全集(リヤザーノフ編集、ロシア版二六巻、一九二三―二五)が出ている。
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[#中見出し]弁証法 ベンショウホウ 【英】Dialectic【独】Dialektik【仏】Dialectique.[#中見出し終わり]
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ギリシア語 〔dialektike^〕 に基く。弁証法とも訳す。本来会話の技術又は弁論の仕方を意味する言葉であったが、哲学上の一定の用語として用いられるようになってからは、様々の変遷を経て今日に至っている。一応の哲学史の上では弁証法は、特定の幾人かの併し多くは非常に優れた哲学者の、思想の内にだけ現われるかのようであるが、併し実は之は意識すると否とに拘らず、殆んど凡ゆる思想に於て見出すことの出来る根本的な一関係であると云っても好い。
弁証法は一切の存在と一切の思惟とに関する根本的な規定であったし、又現にそうなければならない。であるから存在を根本的に思惟しようとする場合、問題がおのずから弁証法に関係して来るということは自然である。実際、存在に関する思惟の比較的特色ある場合を、吾々はエレア主義とヘラクレイトス主義との典型的な対立に於て持っている。そして之がまた同時に弁証法の様々な出発の仕方を決定したのである。エレア学派の祖であるパルメニデス(〔Parmenide^s〕)によれば、凡そ存在するということは一者であるということであり、存在は常に一つであり且つ同じであることをその性格としている。従って存在は多であり得ず差異を有ち得ない、従って又変化・運動なるものも存在には在り得ない。エレアのゼノン(〔Ze^no^n〕)はこの主張を裏から証明するために、吾々が経験上信じている運動及び多の概念を仮定した上で、之を理性によって分析して見ると様々の逆説が生じて来ることを指摘した。之等の逆説は無論要するに逆説に過ぎないのであるが、この逆説を指摘するということは結局、運動及び多が平面的な理性によっては構成出来ないということを無意識的に気付いていることに外ならぬ。即ち運動及び多は(吾々の言葉で云えば)ただ弁証法的にしか把握出来ないことを適《たま》々裏から告げているのである。ゼノンによれば存在は矛盾を含むことが出来ない、然るに運動及び多は矛盾的にしか把握出来ない、だから運動及び多は存在しないというのである。彼にとっては矛盾のあり得る場所は決して存在ではない、あるとすればそれは主観的な思惟に於てである。かくて彼の意図に反して彼自身が指摘せざるを得なかった所の弁証法は、主観の内にその位置を持つ(後にアリストテレスはこの点からゼノンを弁証法の鼻祖だと書いている。ゼノンは運動及び多の概念を一旦肯定する事によって其の否定を導き出した、この点に於ても亦彼は弁証法的であった)。ヘラクレイトス(〔He^rakleitos〕)はエレア学派と全く正反対な存在の概念を有っている。彼によれば存在は一者ではなくて多であり、従って分裂であり闘争である。存在は相互に闘争することによって初めて生成するのであり(「闘争は万物の父」)、従って存在は変化、運動をその性格とする。存在するということは生成、変化、運動することに外ならない。存在は運動するものであって固定したものではない。人々はこの点から、ヘラクレイトスを弁証法の祖と呼んでいる。彼の弁証法はゼノンの夫とは異って存在自身の内に位置する所の客観的な弁証法である。云うならばゼノンのは思惟の弁証法であり、ヘラクレイトスのは存在の弁証法である。この二種類の弁証法は存在に対する二種類の態度から結果したのであり、後々の諸弁証法の二つの典型の源をなすものである。
経験的知識の客観性を疑った点でエレアのゼノンと同じ態度を取ったソフィスト達は、ヘラクレイトスが存在に与えた矛盾性をば思惟に付与して相対主義を取り(「人間は万物の尺度」)、之を主張するために詭弁を用いて論敵を破った。この弁論術を自ら弁証法と名づけたのである。プロタゴラス(〔Pro^tagoras〕)に対立して彼自身恐らく最大のソフィストであった所のソクラテス(〔So^krate^s〕)は併し、却って真理の絶対性の信念の下に、世人の持つ誤った独断的知識の粉砕に力《つと》め、対話、問答を用いて知者と自称するソフィスト達を追求した。この対話術が彼の弁証法である。ソクラテスの対話術の精神はプラトンの諸対話篇となったのであり、プラトンは其等対話篇を通じて、諸概念の帰納と演繹とを極めて理論的に展開した。この彼独特の概念分析をプラトンは最高の知識の形式(哲学)と考え、この学乃至方法を弁証法と名づけた。弁証法はプラトンに至って初めて哲学的方法の名になったのである。弁証法がプラトンに於てかくも積極的なものとなりかくも質量あるものとなったにも拘らず、之が結局の処存在それ自身には関わりない主観の概念分析の内側に留まっていた弁証法であることを注意しなければならない。成程弁証法は存在という対象を明らかにするための方法に違いないのであるが、併しプラトンによればこの存在それ自身が全く固定した、地上から浮き上って凝結した、イデアなのである。見られるものを意味するイデアの概念は、それに就いての近代風の解釈がどうであろうとも、要するに何か幾何学的図形を表象させるようなそういう一定形態(形相、形式、エイドス、本質)を指し示す。それは生成変化するものの正反対物であり、又それであればこそ感性界の有為転変の彼岸としてプラトンが召し出した所のものである。もし仮に存在自身が弁証法的であるならば、その存在は仮現の世界であってまだ真の存在界には属さないであろう。イデア自身は、であるから到底弁証法的ではない。かくてプラトンの弁証法はかの主観的弁証法に属する峻峯でなくてはならない。夙に対話篇的な労作を脱して実証的な諸材料を科学的に整理しようとしたアリストテレスは併し、プラトンの理論のもつ弁証法の意義を、単に学問の準備的手段・思惟の訓練と論争との手段に過ぎぬものにまで堕した。プラトンの主観的弁証法が積極的であるならばアリストテレスの夫は消極的と呼ばれて好い(積極的と消極的とのこの区別は後に夫々、ヘーゲルとカントとの弁証法に就いても一応通用するであろう)。
以上の一連の主観的弁証法に対して客観的弁証法を取ったものは、新プラトン学派の最後の代表者プロクロス(Proklos)であるように見える。師プロティノス(〔Plo^tinos〕)によれば真の存在たる神性は一者であり、この一者が形相(形式)から初めて質料に至るまでの凡ての範疇をば自らを損ずることなく分出するのであり、而もこれ等諸分出は終に一者の内を出ないのであるから結局一者への復帰を意味する。かかる一者の一般から特殊への展開過程(分出過程)をプロクロスは弁証法と考えた。云うまでもなく之は思惟乃至方法としての弁証法ではなくて実在の過程としての夫である。併しこの客観的弁証法は新プラトン学派自体がそうあるように単に東邦の宗教意識に動機されている意味でばかりではなく、理論的解明を容れ難い点で神秘的であることを免れない。実際客観的弁証法の最も重大な要点は如何にして凡ゆる意味での神秘主義を脱却するかにあるだろう。今の場合は然るに却ってこの困難の最も著しい典型である。ニコラス・クザーヌス(N. Cusanus)等の所謂「反対の一致」は、実は弁証法(無論客観に於いての)の神秘主義的断念に外ならない。
ギリシア哲学乃至ギリシア・ローマ哲学以来、弁証法をその体系に上程したのはカント(I. Kant)である。カントの批判主義の精神は、従来の形而上学の批判、又は真の形而上学のための理性の批判に外ならないが、そこで第一に問題となるのは従来真の存在と考えられて来た在りのままの物(物自体)である。カントによれば物がそれ自体に何であるか、如何にあるか、ということは理性(但し理論的理性)によっても決定され得ない。理性はただ、感性に現われた、経験的材料と結合して初めて、経験という一定内容ある認識を有つことが出来るに過ぎない。この経験界を超越した物自体に就いて理論的理性は何物をも決定することは出来ない。併し事実上理性は物自体の存在を仮定する要求を捨てることが出来ない、そこで物自体に就いて何等の内容的な規定をも与え得ない理性が、経験界を超越したこの物自体に就いて何かを規定し得るかのような仮象を産むのが事実である。この超越的(先験的)仮象の論理(批判)がカントの名づける先験的弁証法である。彼の先験的弁証法は(特に二律背反の如きは)批判哲学の生成のための最も有力な槓杆として役立ったものであるが、体系上の秩序から云えば、消極的な位置を与えられているに過ぎない。之を弁証法と名づけた所以は、仮象の常として相反する主張の対立と抗争とを伴うからであるが(弁証法的仮象)、かかる対立と抗争との由って来る構造を明らかにすることは、とりも直さず従来の形而上学を批判することの消極的な一面に相当するのである。併しこの弁証法の実質上の意味はより積極的なものであると考えられる。理性が単独に理性として使用されれば、即ち感性と結合しないで超越的に使用されれば、かの仮象が生じるのであったから、弁証法とは茲では、理性が完全には独立性を有ち得ない、ということを言い現わしているものに外ならない。もっと限定して云えば、弁証法とは形式論理の論理としての完全なる独立性を否定することである。それであればこそ弁証法はカントに於て先験的論理学(形式的一般論理学に対して)の内に属している、そして、実際先験的論理学とは感性と理性との結合の(独立のではない)理論であった。それにも拘らず弁証法が先験的論理学の消極的な部分に止まらねばならなかったのは、論理の独立性の否定がまだ、論理自身の内に論理性の否定である矛盾が含まれるという形に於て意識されるまでに至らず、矛盾は全く論理外にあるべきものとして単純に斥けられて了ったからであり、要するにカントの先験的論理学はまだ弁証法的論理学にまで行かなかったからである。実際彼の先験的論理学の中心概念たる範疇はなおまだアリストテレスの判断表からの引用に外ならず、その限り先験的論理学(この存在の論理学すら)はまだ形式的論理学の支配を脱却していないのである(弁証法を分析論と区別して使うカントの用語も亦アリストテレスに
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