である。一七九六年『知識学の原理による自然法の基礎』(Grundlage des Naturrechts nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)を出版。『知識学序説』第一及び第二(Erste und zweite Einleitung in die Wissenschaftslehre)は九七年、『学者の本分』(Bestimmung des Gelehrten)も同年、『知識学の新敍述の試み』(Versuch einer neuen Darstellung der Wissenschaftslehre)も同年に出た。
一七九八年の『道徳論』(Das System der Sittenlehre nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)によれば、吾々の唯一の信仰の対象は人格の自由と義務とである。之こそが神の世界支配ということの唯一の意味である。活きた道徳的秩序がそれ自身神なのである。この同じ思想は、同年フォルベルク(F. K. Forberg)の論文への序論としてフィヒテが書いた「神的世界支配への我々の信仰の根拠に就いて」にも現われた。処が彼は、この論文が無神論を説くものであるという理由で、フォルベルクと共に訴えられ、かねての同僚との不和や政府に対するフィヒテの強情も手伝って、一七九九年彼はイェナ大学の教職を失い、ベルリンに移ることを余儀なくされた。之がフィヒテの無神論争と呼ばれるものである。一八〇〇年『人間の招命』(Bestimmung des Menschen)、『封鎖的商業国家』(Der geschlossene Handelsstaat[#「Handelsstaat」は底本では「Hanhelsstaat」], ein philosophischer Entwurf als Anhang zur Rechtslehre)を書く。前者に於て吾々は、彼の『知識学』の中に、平素の宗教哲学的研究が如何に次第に実を結びつつあるかを見ることが出来る。一八〇四年以降の彼は新約のヨハネ書の研究によってこの傾向を愈々著しくした。一八〇四年の『知識学』によれば従前の知識学に出ていた自我の概念はもはや単に倫理的な努力という規定を持つものではなくなって宗教的な諦観の色彩を以て描かれている。自我は絶対的実在としての神となる。世界の根柢には愛が横たわる、人間的自由の目的は絶対知としての浄福である。一八〇六年には『聖浄生活への指針又は宗教論』(Die Anweisung zum seligen Leben od. die Religionslehre)が出た。同年『現代の特色』(〔Grundzu:ge der gegenwa:rtigen Zeitalters〕)が出ている。吾々の存在の根拠たるこの神的愛に於て初めて吾々は団体の一員として活動することが出来る。自己は団体に於て初めて自己の目的を見出す、神的愛に基いた此真の団体は神の啓示である。で今、祖国という団体の内に現われる神的なるものを愛することが真の愛国心でなければならぬ。かくて「独逸国民に告ぐ」(Reden an die deutsche Nation)が仏軍侵入の際(一八〇七―一八〇八年)ベルリンに於ける講演となった。フィヒテはすでに一八〇五年エルランゲン大学の教授に任命され、翌年亦ケーニヒスベルク大学の教授として仮の任命を受けたが、一八一〇年ベルリン大学が建設されるに当って該大学教授となった。フィヒテに対する社会一般の信望は日に日に大となりつつあったのである。一八一二年に再び『道徳論の体系』を書いているが、以前の道徳論と比較して宗教的色彩が濃いことは云うまでもない。個人の性格は団体へ関与することに於て初めて成り立ち、団体意識こそ真の道徳的意識である。義務や当為は従前とは異ってもはや道徳の内的本質ではなく、その根柢には之を規定するものとして愛が横たわっていると説かれている。――フィヒテの知識学の諸叙述が次第に論理的なものから宗教的なものに移行して行ったことは興味ある事実でなければならない。従って始め当為や努力の裡に考えられていた意志の弁証法は、後に到ってはもはや現実自身のもつ規定ではなくて絶対者たる現実に関する体系的叙述のみが有つ規定にまで限定されたことは注目に値する。――祖国のために全力を挙げていたフィヒテは、ベルリンの衛戌病院に特志看護婦として働いていた忠実な妻がチブスで倒れて間もなく、妻の病気が伝染して死んだ。
カント自身は夫を承認しなかったが、フィヒテは初め自分の哲学が全くカント哲学を原理によって組織化するものに外ならぬと信じていた。この組織・体系の概念はヘーゲルの観念論の体系に到って最も具体的な形を取ったものである。併しフィヒテの観念論がカントの夫と異なる特色はそれが何よりも専ら倫理的或いは宗教的であった点に存する。と云うのはフィヒテにとってはカントが実は最初の問題となし、後にはまたシェリングが取り上げた処の自然という概念は、至極軽い位置をしか与えられていないのである。フィヒテの全集は同じく哲学者である息子の小フィヒテによって出版された(本集八巻、遺稿三巻)(一八三四―五年)。メディクス(F. Medicus)の編纂にかかる選集(六巻)(一九〇八―一二年)がある。
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参考文献――Hase, K., 〔Tenaisches Fchte−Bu:chlein〕, 1856; Loewe, J. H., Die Philosophie Fichtes, 1862; Lassalle, F., Die Philosophie Fichtes und die Bedeutung des deutschen Volksgeistes, 1862; Windelband, W., Fichtes Idee des deutschen Staates, 1890; Rickert, H., Fichtes Atheismusstreit, 1899; Fischer, K., Fichtes Leben, Werke und Lehre, 1900; 〔Le'on〕, X., La Philosophie de Fichte, 1902; Lask, E., Fichtes Idealismus und die Geschichte, 1902; Fuchs, E., Vom Werden dreier Denker, 1904; Medicus, F., Fichte, 1905.
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[#中見出し]プレハーノフ ゲオルギー・ヴァレンチノヴィッチ Georgii Valentinovich Plekhanov(一八五六―一九一八)[#中見出し終わり]
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ロシアに於けるマルクス主義の卓越した理論家であり同時に実践家である。今日のロシア・マルクス主義のために哲学的基礎を固めた点と、ロシア共産党の成立及び発展に与って極めて有力であった点とで、忘れる事の出来ない人物。就中政治的指導者の第一人者としてレーニンを推すならば之に並ぶべき理論家はプレハーノフ[#「プレハーノフ」は底本では「プレハノフ」]を措いて外にない。タンボフ県に生れ、学生時代から夙にナロードニキ(人民主義者)の群に投じて革命運動に参加し、後『土地と自由』誌に拠って有力な活動を試みた。一八七八・九年のペテルスブルクのストライキに刺戟されて同誌上にロシア労働運動に関する論文を発表しているがそこに於てはまだナロードニキ風のイデオロギーを捨て得なかったに拘らず、すでにマルクス主義的鋒芒が現われているのを見逃せない。之はまだ彼がマルクス・エンゲルスの文献を読んでいない時のことである。マルクス・エンゲルスの著述に親しんで愈々真正のマルクス主義者となったのは、一八八〇年西ヨーロッパに亡命した以後であり、この時始めてナロードニキのイデオロギーを完全に脱することが出来た。一八八三年『社会主義と政治闘争』を著す。翌年アクセリロート(P. Akselrod)、ドイッチュ(L. Deutsch[#「Deutsch」は底本では「Deutseh」])、ザスーリチ(V. Zasulich)と共に、ロシアに於ける最初の社会民主主義的組織である「労働解放団」を組織した。之が今日のロシア共産党の母胎たる社会民主主義労働党の前身である。
彼は単にマルクス主義の優れたる弘布者であったばかりでなく、マルクス・エンゲルスの根本思想の正統を継ぐ深刻にして独自な理論的闘将であり、正統マルクス主義の展開擁護のために誠に輝かしい独創を示した。彼は夙にヘーゲル哲学に親しむことを知っていたのである。就中ベルンシュタイン(E. Bernstein)の率いるマルクス修正派が有力になって来た時(一八九〇年)、彼は何が真正の正統マルクス主義であるかを示すことに於て絶大な理論的功績を示した。修正派が当時の現実の経済並びに社会状勢を理由としてマルクス主義を補正すべきであると説いたに対して、プレハーノフは之等自称批判者達の非弁証法的思惟方法が何等マルクス主義の補正ではなくてその歪曲に過ぎないものであるとして一蹴した。国際的「日和見主義」或はロシアに於けるその分派たる「経済主義」と「ストゥルーヴェ主義」とに対する、又「ロシア社会学派」の主観主義や又はナロードニキ主義やに対する闘争に於ても、彼の右に出た者を見ない。彼はかくてマルクス主義哲学を組織的に遂行することによって国際的な社会主義運動のために稀に見る大きな実践的影響を与えた。それ故レーニンはプレハーノフの著述を能く学ぶのでなければマルクス主義を根本的に理解することは出来ないと云っている。実際この時期に於て書かれた凡ゆる領域に於ける彼の理論的労作は世界的文献として通用したし、又今後もそうなければならぬであろう。『無政府主義と社会主義』は一八九四年フランス語で書かれ、間もなく英・独語に飜訳された。『チェルヌイシェフスキー研究』も同年に出版、哲学的著作として最も重きをなしている『一元論的歴史観の展開の問題に対して』(川内唯彦訳、史的一元論)は一八九五年ツァーリの検閲の網を潜ってロシア語で出版された。一八九六年には『唯物論史のための寄与』(恐らく母語で書かれたもの)が出版された。
彼は一八八九年以来第二インタナショナルの主導者として、エンゲルス、カウツキー、ベーベル等と共に活動していたのであるが、中でも彼とレーニンとの関係は最も宿命的であったように見える。後輩レーニンの台頭と共に十数年来のプレハーノフの権威はすでに多少の動揺を免れなかったが、それでもロシア社会民主党の第二回大会(一九〇三年)を経るまでは、この二人の代表的闘士は恰も各々の分担を協定したかのように夫々政治闘争と理論闘争とを以て相寄りながら活動することが出来た。両者は機関紙『イスクラ』(火花)と『ザリャー』(黎明)とに拠って経済主義への偏向の克服と中央集権的革命党への結成とのために戦ったのである。第二回大会に当ってボリシェヴィキとメンシェヴィキとが分裂するに到った時、『イスクラ』をボリシェヴィキの指導の下に編集すべく選ばれたのもこの二人であった。之に拠ってプレハーノフは昔日の才能をボリシェヴィキとして再び思うままに発揮することが出来た。処がその後数ヵ月を出ない中、彼はイスクラ編集者としてメンシェヴィキの人々をも迎える事を提言するに到ったが、レーニンは之を却けてイスクラを脱退した。かくてイスクラはメンシェヴィキのものとなり、レーニンと袂別したプレハーノフは爾後暫くの間全くのメンシェヴィキとして止まった(『吾等の批判者の批判』が一九〇六年ロシア語で出版された)。併し社会民主党がその苦難期(一九〇七年後の数年間)に入るや、プレハーノフは結果に於て再びボリシェヴィキの味方となり党の
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