ノ見れば、単に物質とその属性としての時間・空間・運動との連関のより以上の具体化や、実験的操作の実践活動と実験対象の夫による変化との統一的なより忠実な記述ということに過ぎないのである。実は唯物論的世界観は、自然科学の発達、その論理的発達(之は而も社会の技術的基礎と技術学の発達水準に依存するのだった)によって、却って愈々支持されて行きつつあるのに他ならぬ。蓋し自然科学は元来、自然科学者自身の素人臭い「哲学」を抜きにして考えれば、常に唯物論的な自然的立場に立っているのであった。
自然科学と文化との関係に就いて次に問題になるものは、例えば自然科学と文学乃至芸術だろう。主に文学を中心として考えて見れば文学も亦一つの思想だということを注目すべきである。と云うのは文学は夫々一つの世界観に基かざるを得ないのであり、之を文学的方法(普通創作方法と呼ばれている)によって芸術的表象にまで具象化するのである。この構造は形式的には自然科学と全く同じであって、ただ自然科学の方法が所謂論理として、一般的な可移動的な通用性をもつ公式を取り出すのに反して、文学的方法は局部的な通用性に束縛された性格や典型を取り出すだけである。にも拘らず自然科学が基く処の世界観と文学の基く世界観とは、そのアスペクトや光線の当り方やは別として、その実質に於て、同じ代物の世界観だということを忘れてはならぬ。だからここにこそ自然科学と文学との本当の連なりがあるのであって、自然科学的文学(実験的立場に立つ文学や自然科学の知識を材料とした文学)や、自然科学のエッセイ的表現や、自然科学に就いての文学的・文筆的評論や、又一般に文筆的評論の自然科学への立脚や、そうした両者の間の本質的な連絡がここから説明出来るわけである。――蓋し文学は哲学と同じく、文化一般に亘る文化の一部門であって、自然科学が文化一般に対して有つ関係を求めれば、必ず夫と文学との関係に行きあたらざるを得ないのである。だが今日一般の世間では、自然科学のこの「文学的」な社会規定が自然科学自身の本質の一つに属することを、必ずしも意識はしていない。
五 結論 さて第三に自然科学が一つの社会意識・イデオロギーとして有つ特色を明らかにして結論に代えよう。問題は自然科学の階級性乃至党派性に集中するのである。元来階級性がより一層限定されたものが党派性であるのだが、用語例から云えば両者の間には多少場合の相違がある。階級性とは主として社会階級人の主観に基く主観的規定を指すのを常とし、之に反して党派性の方はより一層理論の客観的な論理的潔癖と首尾一貫性とを指すのを常とする。だが党派性も亦一つの主観性(但し客観性を有った処の)であることは云うまでもないと同様、理論乃至科学の階級性も亦一つの論理的規定であることを見失ってはならぬ。
理論乃至科学の階級性(乃至党派性)は、普通理論乃至科学の比較的外部的な規定でしかないと考えられ易い。理論乃至科学が歴史的社会に於て、云わば偶然に外から受け取る現象形態に於てのみ、その階級性が認められるので、理論乃至科学の本質そのものには階級性はない。従ってプロレタリア科学とかブルジョア科学とかいう言葉は本来無意味なのだ、と往々云われている。だが自然科学に於てもテーマの選択一つにも、理論の組み立て一つにも、科学的成果の解釈一つにも、又理論の発達条件にも、凡てイデオロギーが口を利いているのである。自然科学の歴史的発達の促進阻害に就いてだけは階級性が見出されるが、自然科学の理論内容(即ち論理)には階級性を見出し得ないという考えは、自然科学がその理論内容と独立に発達し得ると考えるナンセンスに帰着する。自然科学の歴史的発達にもし階級性があるなら、この発達を必然ならしめた自然科学の内部的論理機構そのものに階級性がなくてはならぬ。もしそうでなければ、自然科学は全く偶然的に外部的な原因によって歴史的変化を遂げるものだということにならざるを得ないからである。
尤も自然科学は社会科学や哲学に較べて、その階級性乃至党派性が或る意味に於て原則的に稀薄であることは認めなくてはならぬ。それは自然そのものと之を科学的に認識する人間活動そのものとの間に比較的間隙があるからに過ぎない。だが自然科学と云っても、之を社会の技術的基礎や社会機構全体、又他領域の文化乃至イデオロギーから切り離して取り扱うことは許されなかった。この連関は自然科学にとって偶然な外面的なものなぞでは決してない。でこの連関に於て自然科学の階級性を取り上げて見るなら、この階級性の積極的な意義はハッキリと浮き出て来る。自然科学の階級性を原則的に否定しなければならぬと考えさせるものは、科学至上主義となって現われる一種の管見的「哲学」の影響に過ぎないのであって、それ自身、自然科学論の社会階級性の最善の或いは最悪の見本に他ならない。
[#ここから中見出し]
新聞
(英 news−paper, 独 Zeitung, 仏 journal)
[#ここで中見出し終わり]
単に新聞紙に限らず、広く新聞現象を指す。人間社会のイデオロギー交通の一つの契機であり又一形態である処のジャーナリズムは近代的様相としては、出版、ラヂオ、キネマ、演台(舞台及び演壇)、博覧設備(展覧会・博覧会・陳列台・ショーウィンドー・ネオンサイン・スカイサイン・アドバルーン・其他)等の現象をその乗具とするが、この内出版(乃至印刷)現象にぞくする書籍・雑誌・パンフレット・ビラ・ポスター・伝単・等々と並んで、近代出版現象の代表的な一つとして新聞現象を数えることが出来る。一般にジャーナリズムというと近代ブルジョア・ジャーナリズムだけを考えたり、また極端な場合には新聞紙と連関した行動だけを考えたりするが、ジャーナリズムは近代ブルジョア・ジャーナリズムや新聞に較べて遥かに一般的な又歴史的に古い規定である。
近代新聞紙が発生したのは十七世紀前半のヨーロッパ各国の大都市に於てである。之は初めグーテンベルク(Johannes Gensfleisch Gutenberg, 1394(−99)−1468)の手押機械を用いた四六版数頁の週刊新聞紙に過ぎなかったが、十九世紀の中葉までに資本主義の発達と政治的自由主義の伸張とに沿って極度の発達を示すに至った。併し近代新聞紙に限らず一般に新聞現象として見る限り、その起源は遥に古い。新聞紙の初めと看做されているのはシーザー(〔Gaius Julius Cae&sar〕, 100−44. B. C.)の Acta Diurna や前唐玄宗帝の『邸報』の如き官報類似のものであったが、ローマ貴族及び中世ヨーロッパ諸侯は、通信奴隷や通信臣下を用いて情報(間諜制度や、使節制度による)を収集したが、之が自由に回読されたりノベリスト等やゼンガー等によって読売されることによって、やがて手書き新聞となった。更に近世初期のブルジョアジーはその商業上の報知のために消息・往来を交換したが、夫が今日の近代新聞紙の初めをなす。
新聞紙は新聞現象の機関乃至乗具である。之を発行するインスティチュートは新聞社であり、新聞社にあって新聞紙を編集・発行するものは新聞記者(広義の)であり、新聞紙を購読する者は新聞紙読者である。新聞現象はこの四つの要素の間の具体的な関係に基いて社会的機能を営む一つの社会現象なのである。――新聞紙プロパーの他に多くの補助新聞紙(例えば号外を別として週間朝日・サンデー毎日の類)もあるが之は新聞紙が含む広義の文芸欄(Feuilleton)の延長独立したものに過ぎない。又新聞社組織の外に付属的な組織や副次的な組織がある。通信社・広告取次店・販売取次店等々。又新聞記者と云っても社長・出資者・株主其他の出版資本家と記者とは区別されねばならず、記者の内にも顧問客員や専属記者や寄稿者や投稿者もある、がより大切なのは編集部員(探訪・論説委員・主筆・其他)と営業計画部員との区別である。後者は新聞社組織の経済的・資本主義的・物質的基礎に直接関係し、前者は之に観念的作用力を通って間接に関係する。ブルジョア新聞社組織が行う資本主義的新聞企業に於ても、その言論は必ずしも直接新聞社自身の経済的基礎に貢献しなくてもいい場合がある。同一資本系統の企業を利するとか、一般社会の資本家的利益を齎すとかすれば足りる場合が、決して少くはない。――読者は併し特別な要素である、と云うのは読者は新聞記者其他のように新聞社組織に組み入れられたものではなくて、一応之から独立した人的要素であるから。
新聞紙の紙面は普通、政治欄・文芸欄・商業欄・広告欄に分類される(ビュヒャーによる――〔Karl Bu:cher〕, 1847−1930)。だがこれは、新聞紙の空間的分類であって、新聞現象の社会的機能による分類ではない。新聞現象は内容的に報道(Nachrichten)と文叢(Literatur)とに分類される(E・シュタイニッツアァー)。前者は時事性・現実行動性(actuality)を著しい特色とし、後者はこの点あまり顕著でない。これは報知的部面(Anzeigenteil)とテキスト的・編集的・部面(Texts−Redaktionsteil)との区別とも云われている。
報道とは私信・廻文などと異り公共的なものを云い、或る一定の限られた読者でなく、一般的に不定な読者を想定するものを指す。併しその内でも、私的・個人的・市井的・私党的な興味に基くものと、公的・国家的・市民的・社会党派的な興味に基くものとを区別しなければならぬ。前者を私的報道、後者を公的報道と呼ぼう。だが又この報道は公私ともに、報道者の個人的な利害に直接立脚しないことを建前とする。そうでなければ報道は公平と真実との外見を失うからである。報道者自身の個人的利害に直接立脚する特殊な報道は広告と呼ばれている。広告も明らかに一種の報道=ニューズであるが、ニューズ・プロパーと異る点は、ニューズが読者に一種の読む義務を負わせるに反して、広告は読者の好意ある閲読を希望するということである。普通広告は有料のニューズであるという風に規定されているが、その区別は寧ろ今云った点から派生するものである。報道と広告とのニューズとしての差別と同一性は、之を云い表わす各種の言葉の内にも現われている。Intelligenz, Anzeige, Announcement はどれも広告の謂であるが、その言葉の本来の意味は寧ろ報道を指している。
文叢とは第一に論説、解説及び注解を含み、第二に評論、批判及び紹介を含み、第三に文芸を含む。第一は主として教導の機能を、第二は主として評価の機能を、第三は主として娯楽(Unterhaltung)の機能を果す。無論この三つのもの夫々の間に、又三つの機能夫々の間に、一定の連関と移り行きがあるが、文叢を広く批評と呼ぶことが出来る。さてそこで、報道と広告との連関はすでに述べた通りであるが、報道乃至広告とこの批評との連関を述べることが必要である。実は報道それ自身がその意図と効果から云って一つの批評的機能を有っている。ニューズの選択、書き方、載せ方などは、すでに一定の批評的態度に基かざるを得ない。逆に批評記事が一つのニューズに他ならぬことは云うまでもない。又広告の本質は元来自己推薦にあるが、そのためには一定の自己評価を下して見せねばならぬ、云わば之は一種の自己批評であり、或いは少くともその形を取らねばならぬ。批評自身は逆に又、広告の機能を営む場合がある。夫は主に新聞社組織或いはその背景をなす一定の資本、或いは広く資本主義社会そのもののために、宣伝の役割を与えられた時などである。
新聞現象の根本規定は時事性にあると云われている。時事的とは世界の刻々の歴史的運動に現実的に沿うた活動的な観点を意味する。時事性の内容は第一に日常性である。日々(刻々・年々・月々)条件を新たにする事物の動きに就いて、その日々の特殊性を指摘するためには、日常性の原則が必要である。之は超時間的な形而上学的原則の[#「形而上学的原則の
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