vは底本では「形面上学的原則の」]よくする処ではない。時事性乃至その第一規定であるこの日常性は広くジャーナリズム現象の根本規定なのだが、新聞現象の場合には夫が報道の迅速さの問題となって、第二の規定として現われる。間に合う・時宜に適する、ということが新聞現象では極めて大切な時事性乃至日常性の内容となる。ここから新聞現象の週期性なるものが見出される。新聞現象に関する各国の法制は、寧ろ逆に、一定の週期性ある刊行物を、新聞紙と定義している。新聞現象の週期性は交通の物質的条件によって決定されることは云うまでもない。交通機関の発達はこの週期を細かくする。
 だが新聞現象の根本規定である時事性は、単に日常性につきるのではない。或いは、日常性そのものが、単なる迅速さや週期性につきるのではない。時事性のもう一つの大切な規定はその政治性に存する。尤も政治性と云っても広く社会性を意味する場合と狭くブルジョア的或いはプロレタリア的政治活動を指す場合とは区別されるが、新聞現象にとっては、いずれの場合も必要である。新聞現象の時事性がもつ社会性に就いて、新聞紙は普通新聞と特殊新聞とにその社会的機能上分類される。経済新聞・産業新聞・宗教新聞・大学新聞・文芸新聞・等々は後者にぞくする。之は社会性を発揮する部面が普遍的か特殊的かの相違であるが、時事性が社会性に止まるか或いはプロパーな意味での政治性を発揮するかの区別は、日本の例で云えば、小新聞と大新聞との区別となる。小新聞は主に社会の市井事を報道することを目的とし、之に反して大新聞は政論の用具であったが、独り日本に限らず今日はこの小新聞が資本主義的大新聞として発達し、政治的批評機能に富む所謂大新聞は、ブルジョア新聞紙としては事実上は小さい新聞紙となっている。かつて大新聞にはブルジョアジーの社会的政治的「輿論」を代表するという政治的役割があったが、今日のブルジョア新聞に於てはこの役割は全くの単なる扮装としてしか残っていない。そして最後に、社会性政治性そのものの内に、近世の階級社会に於ては判然とした対立があるので、そこからブルジョア新聞紙とプロレタリア新聞紙との区別が現われる。ここで問題になるのはもはや単なる輿論や何かではなくて、新聞紙とその読者層との政治的文化的イデオロギーなのである。現代の新聞現象に関する最後の問題はここにあるのである。
 ブルジョア新聞の特色は新聞紙という商品の製作販売による利潤の追求という過程の内に存する。かかる制限をほぼ或いは完全に脱却しているプロレタリア新聞は無産者階級の組織・啓蒙・宣伝・アジテーション・指令其他の機関として機能することによって、却って新聞本来の一般社会的使命に立つことが出来る。ブルジョア新聞に於ては曲りなりにも新聞本来の使命に立ち帰るべく新聞の「倫理化」を説くのを常とするが、云うまでもなく倫理は利潤の前に何等の権威でもない。ブルジョア新聞による「自由新聞」運動も、少くとも「社会主義新聞」運動(F・ラサールやK・ビュヒャーによる)にまで転化するのでなければ積極的になれない。「プロレタリア新聞」はコンミュニストによって始められ、今日ではソヴィエト連邦(『イスクラ』に始まる)は云うまでもなく、イギリス、アメリカ(『デーリー・ワーカー』)等に於て大きい勢力と絶対な意義とを持っている。尤もプロレタリア新聞紙は歴史的にも、理論的にもコンミュニスト・パーティーの機関紙に限るとは考えられないが、之は今日プロレタリア・ジャーナリズムの最も有力な一部分をなしている。
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参考文献――〔K. Bu:cher; Gesammelte Aufsa:te zur Zeitungskunde〕, 1926.  E. Steinitzer; Der Allgemeine Beitrag des modernen Nachrichtenwesens(〔Grundriss d. Sozialo:konomie〕 ※[#ローマ数字4、1−13−24]. 1925).  O Groth; Die Zeitung, 1927. なお詳細は戸坂、新聞現象の分析(『現代哲学講話』【本全集第三巻】所収、一九三四年)を見よ。
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[#中見出し]日本精神[#中見出し終わり]
 一般的に云えば、日本民族の歴史が何等かの精神の表現であるとか、又はその表現自身がこの精神であるとか考える立場に立つ時、この精神が日本精神と呼ばれる。之によって日本民族の歴史がもつ本質が云い表わされると考えるのである。精神という言葉が通俗的に、ものの本質乃至生命を意味する限り、日本精神なるものは日本民族の本質を通俗的に云い表わす言葉として不都合なく用いられてよい。併し日本民族の歴史そのものが日本精神なる表現であるとか、又は日本精神の表現であるとか考えられる場合は、夫はもはや通俗的な語法ではなくて、一定の哲学乃至世界観上の体系を想定した上での一つの理論的説明を意味する。即ち解釈学的な歴史哲学乃至歴史観へ夫は立脚する。ここにすでに日本精神という概念自身の理論上の疑問が含まれている。この意味に於て、日本民族乃至日本の、歴史的現実を解明乃至解釈する一つの原理として、日本精神なるものを持ち出すことは、一種の哲学的観念論に立脚するものである。
 日本精神の提唱は、云うまでもなく今日に始ったのではない。併し之が一定の意図の下に、広汎に提唱され又強調され又流行し始めたのは、武力的侵略による満州国独立と、之をシグナルとする処の日本ファッシズムの急速な台頭以来である。日本精神は日本ファッシズムの諸イデオロギーの共通な根本観念であり、又実にその合言葉又はスローガンである。無論一般にファッシズムはその本質と名目上のレッテルとが一致しないという著しい特色を有ち、そのイデオロギーは何等その本質に相応するとは限らないのが常であるが、その意味に於てファッシズムはそのイデオロギーを一種のデマゴギーとしてしか持つことが出来ないのであるが、日本精神なるものも亦、日本ファッシズムのためのそうしたイデオロギー=日本主義の根本観念なのである。
 元来ファッシズムは様々な形態と条件との下に高度に発達した諸ブルジョア国に於ける独占・金融・大産業・資本主義の行き詰りと内訌と腐敗との必然的な一つの著しい所産であって、無産者大衆の社会主義的組織が鞏固に社会変革的に発達していないにも拘らず、無産大衆の社会変革へのエネルギーが横溢しているような国に於て、各種の社会民主主義者の認容の下に、中農・小商人・軍人・官吏・意識の遅れた労働者、其他等の層の意識を通じて、独占・金融・大産業・資本がこの無産者の変革的エネルギーを強力的に抑制して自らの解体を延引しようとして用いる政治形態である。日本に於ては、その資本主義が世界的発達水準に達しているにも拘らずなお著しい封建制の残存物(軍閥・官僚・国家的家族制度・其他)に依存しているのであるが、そこで日本のファッシズムはこの封建的残存勢力を利用することによって初めて、純然たるファッシズムの道を開拓する他はない。そうでなくてもファッシズムは民族主義・国粋主義・ショーヴィニズム其他を介して封建化・原始文化化・其他を最後のイデオロギー内容としなければならないのであるが、特に日本ファッシズムはこのイデオロギーに特別に都合のよい根拠を付与することが出来る。日本の封建的残存勢力を利用して、ファッシズムが必然に赴かざるを得ない一種の封建化的イデオロギーを、強化し権威づけるものが、正にこの日本ファッシズムのイデオロギーとしての日本主義であり、そしてその中心観念が日本精神なのである。
 それ故日本精神の各種の主張は、まず第一に日本精神を高唱する一つの精神主義という共通特色を有っている。唯物主義・唯物思想・唯物論、乃至科学的態度・技術的文化、そして最後に個人主義と資本主義、之に対するものが精神主義でなければならぬという。尤も之は決して日本精神主義に就いてだけに限る現象ではなく、各国のファッシスト独裁国のファッシスト・イデオローグの共通な云い草であるが、特に日本精神主義はこの精神が特別に日本的であることを強調する。と云うのは、ヒトラーもドイツ的精神を、ムッソリーニも亦イタリア的精神を強調するのであるが、日本精神主義者は、国粋的な国学の範疇を用いて独特な国史認識の方法を用意しているのであり、或いは民族神話的、或いは儒教的、仏教的或いは却ってヨーロッパ哲学的、言辞を援用することによってさえ、固有に日本的なものを導き出す。その結果、日本精神主義による日本精神なるものは、その国家封建主義的乃至封建主義的な国史認識の方法とその認識の対象との二重の関係から云って、根柢的に封建的な乃至は原始的でさえある処のものとならざるを得ない。所謂日本精神のこの封建性乃至原始性を利用することによって、現代日本の資本主義の露骨な矛盾は、合理的に解決される代りにこの矛盾が無かったかのような原始的な諸条件の讃美にすりかえられる。
 日本精神主義の一つの変形はアジア主義乃至大アジア主義であり、日本精神に基く日本はアジア有色人種の代表者・指導者として、ヨーロッパの唯物思想・個人主義・資本主義等々に対抗しなければならず、つまり満州及び支那其他は日本を盟主として甦生しなければならぬと説く。この際日本精神に基く政治理想は法治国家の観念の代りに古代支那の封建イデオロギーの一つである王道主義でなければならぬ。――それから日本精神主義の一つの特殊な形態は、一種の農本主義となる。日本の封建制残存の一つの物質的地盤でもある処の農業労働(特に零細農業労働)人口の圧倒的多数という事実に仮託して、農業中心主義而も低技術的な農業中心主義が日本精神の主なる内容であるとし、唯物論・マルクス主義、或いは自由主義・個人主義・資本主義等々が想定すると考えられる工業中心主義は、絶対に日本精神と相容れないと説くのである。つまり日本精神は非資本主義的であるから、ヨーロッパ的社会主義は日本精神にとって有害無益だということになるのである。資本主義の矛盾を資本と労働力との社会的対立にあると見る代りに、都市と農村との対立にあると見るのは、この農本主義の広く行われている結論の一つであり、日本の金融ブルジョアジー自身がこの農本ファッショ的結論に対して絶大な信頼を懐いていることは注目に値いする。
 日本精神の内容如何に就いては日本ファッシスト達の間に初め必ずしも完全な一致はなかったが、一九三四年(昭和九年)以来、右翼政治思想諸団体間の戦線統一がおのずから行われると平行して、夫は遂に国体明徴に帰着統一されることとなった。日本の国体の本義はこの絶対主義にあるのであって、日本精神とは取りも直さずこの国体意識だということに結着した。事実右翼諸団体の統一運動は、軍部・ブルジョア政党・反動諸団体の表面上強調する国体明徴の運動によって、遽《にわ》かに促進された。処が国体意識なるものは実は主として国家理論的な乃至は政治学的な技術上の観念であり、主として憲法の法律学的解釈の問題に結びついていたのであるから、各種の内容の日本精神は反自由主義的憲法解釈に於て、共通な一致した三角点を発見することが出来る。従って日本精神の内容は又この点に集中加重される。アジア主義や王道主義の声は衰え農本主義の教説は無用となり、独り絶対主義・国体観念だけが日本精神の中心に置かれることとなる。
 日本精神の提唱は一見自由主義に対する抑制であるかのように見える。事実又夫は封建的勢力の高揚に他ならぬように見える。だがもし日本主義を目して単なる封建的勢力の高揚だとしか見ない者があるとすれば、それは日本主義の本質を見誤り、それの処理法を誤るものでなくてはならぬ。日本精神は明らかに日本に強力に残存しつつある封建的勢力を材料とするものであり、もしこの材料に頼らぬとすれば全く成立し得なかったものであるが、併し問題は、何故に、何の目的のために、何の意義に基いて、かかる封建的勢力が日本精神の
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