ッる生産技術自身の内容に直接関係した理論乃至科学である。そして社会に於けるこの生産技術を、社会の生産力と生産関係との連関に於て、又社会に於ける観念的上層物との連関に於て、取り上げるものが他ならぬ社会科学であった。そこで自然科学は一般に、技術学との連関を通じて、社会科学と本質的な連絡を有つことが明らかとなるのである。之は実は自然科学が要するに社会に於ける一個の観念的上層物=イデオロギーだということの一つの結果であり、その科学論的な断面に他ならないのだが、併し事実、技術学乃至技術理論は、一面に於て自然科学的な科学であると同時に、他面社会科学的な科学なのである。生産技術とは元来、自然と社会との切り合った領域だったからである。
以上は自然科学自身の部門間の連関と、自然科学と他の諸科学との連関であったが、次に自然科学が一つの社会的な存在だという点にまで問題を拡げて行こう。まず始めに生産技術と自然科学との関係である。――自然科学が技術学と最も密接な連関にあることはすでに述べたが、その際触れたように、自然科学の発達は窮局に於て社会に於ける生産技術そのものの水準・与件に負うているのであった。処で、この生産技術なるものが何かに就いては、多くの異論があるのである。観念論的な哲学者や文明批評家達は、概して人間の理性が一定の実際生活上の必要を目標として目的論的に切断されたり形象づけられたりしたものを、漫然と技術と呼んでいる。だが之ではまず何より先に困難なのは技術と技能との区別を発見することだろう。技能は比較的に抽象的な人間能力の一つに他ならないが、技術の方は社会の一定の物質的与件(道具・機械・工場・交通設備・其他)と明白に結びついていなければならぬ。でこの生産技術(技能ではなく恐らく技能の客観的な実際的尺度となる処のもの)なる観念も亦、唯物論的観念から見て初めて、科学的な概念となることが出来る。
処がこの生産技術に就いての唯物論的な概念であっても、まだ必ずしも一定の輪廓を得ているものとは断定出来ない。大体唯物論的通念によれば、技術とは「労働手段の体系」だというのであるが、その体系ということの実際的な内容が何であるかが問題であって、もしこの労働手段の「体系」なるものが、結局労働手段自身であるならば、夫は社会の技術的基礎ではあっても、世間で云う所謂技術なるもの自身のことではない。もし又体系という観念が単なる労働手段の総体以上に何かをプラスしたものならば、そのプラスの秘密はつまり技術という観念そのものの秘密に他ならぬ。この問題の解決は今その処ではないが、仮に技術という観念自身が問題を含むとすれば、「社会の技術的基礎」でも、又は「社会の技術水準」でも、今の場合の役に立つ。とにかくこうした技術的なものが、自然科学の社会的基礎をなしているのである。技術学的知識や技術学的技能は、云うまでもなく自然科学と夫のこの社会的基礎とのつながりが具体化され主体化されたものに他ならぬ。
処が生産技術なるものは、社会機構に於て、一般的に、根本的な役割を占めている処のものの一つである。なぜと云うに、この技術的基礎と、更に人的・社会的・政治的・結合をなす労働力とは、生産力の二つの内容であり、社会の生産関係を決定する物質的内容だからである。そして労働力が人的な主体的な要因であるに反して技術的基礎の方は物的な客体的な要因であることは明らかだから、労働力に較べて技術的基礎の方が唯物論的に根本性を有っているということも明らかだろう。で、この点だけを取れば、社会の歴史的発達を技術(機械其他)の発達に帰着させ得ると考え、甚だしきに至っては社会的実践に於ても技術家が支配すべきであるとしたり、又専ら社会の技術的、メカニカルな、自然的変革を待たねばならぬと考えたりする、所謂技術主義が発生するのであるが、これは技術主義なるものは又一種の「科学主義」(実は自然科学主義)を結果するのが常である。
だがこのような技術主義の根本的な誤りは、社会の物質的生産力に於ける労働力の重大な役割を忘れたことであり、社会の技術的基礎によってだけ社会機構を説明出来ると考えたその機械論にあるのだが、所謂科学主義(自然科学的思想の万能)も亦、そうした自然科学的機械論に帰着する。――まして唯物論をこうした技術主義や科学主義と混同することは出来ないので、唯物論の本質の一つはディアレクティックであり、凡そこうした機械論を克服する処にこそその特色があるのである。
[#1字下げ][#小見出し]四 自然科学と文化[#小見出し終わり] そこで問題は第二に、自然科学と文化との関係に移る。ここでも亦、技術と自然科学との関係が注目されねばならぬ。技術的なものは社会機構の一つの根本的な基礎であったが、この社会機構に基いてその上に発生、建設されるイデオロギー乃至文化は従って、いつも或る関係に於て技術的基礎に基いているわけである。而も文化乃至イデオロギーが技術的な基礎に基いているということは、文化乃至イデオロギーの内容機構が技術的なものによって一定の特色を与えられているということである。処で今この技術的基礎と自然科学との元来の密接な連関を思い起こせば、文化乃至イデオロギーの一般を自然科学的内容が如何に特色づけ得るかということが判る。自然科学自身が一つの文化乃至イデオロギーなのだから、従ってこの関係は、自然科学とその他の文化、イデオロギー一般との内面的交渉に他ならぬ。
今日の文化乃至イデオロギーは大体に於て二群に分けられる。第一のものは技術乃至自然科学との連帯関係に忠実な文化(イデオロギー)乃至文化概念(イデオロギー概念)であり、第二のものは技術乃至自然科学との連帯関係を積極的意識的に又は無意識的に破棄したり自らそう称したりする処の夫である。後者は反技術主義・反合理主義・神秘主義其他の形の下に、今日のブルジョア・ファッショ・哲学の観念論の多くのものを含めている。之に反して前者は大体に於て、意識的無意識的に、唯物論の側にぞくしている。――ここで一般に哲学と自然科学との関係を明らかにする必要がある。
近代の文化史上の特色の一つは自然科学と哲学との分離である。自然科学は哲学から独立し、哲学を俟たずに発達・通用し得るものと考えられた。之に応じて一方に於ては、哲学一般の否定と、自然科学(乃至広く科学)の体系そのものこそ哲学に他ならぬとする機械論に通じる文化理論とが、発生すると共に、他方に於ては却って又、哲学を如何にして自然科学乃至一般に科学から独立させて「アプリオリ」化すかという試みが行われた。自然科学(乃至一般に科学)と哲学とのこの分裂を正常な必然的連関に齎したものは云うまでもなく現代の唯物論である。現代唯物論によれば、自然科学は哲学(唯物論)的な世界観と範疇組織とを持たずには、その方法を確立し成果を要約し研究を目的意識的に促進させることが出来ない所以を明らかにすると共に、哲学も亦、自然科学の健全な立場と具体的な成果とに注意を払うのでなければ、観念論的乃至神秘論的な逸脱を免れることは出来ないと考える。蓋し哲学とは或る特定な意味に於ける論理学乃至認識論のことに他ならず、人間的経験と認識との総決算と要約とを意味するのだが、人間的経験乃至認識に於て最も基本的な段階にあるものが自然科学的知識だからである。尤もその際、すでに述べたように、自然科学と社会科学との原則的な区別とその連関とを見落すことは、再び例の科学主義や技術主義や機械論に陥ることだが。
この場合まず注目すべき要点は自然科学の方法に関してである。普通自然科学の方法は、説明にあるとか因果づけにあるとか法則の付与にあるとか、と云われているが、そういう規定よりも大切なものは、一体自然科学の方法とは何を指すか、である。独り自然科学に限らず一般に科学の方法とは何か、ということである。方法(Methode)の科学手段(Mittel)と狭義の科学方法(Weise)とに区別されなければならぬ。自然科学はまず観察実験したり統計を取ったりして材料を占有吟味した上で、この材料の間の法則的な関係を惹き出すべく数学的解析操作をしたり概念上の分析操作をしたりする。と云うのは、実験や統計の出発点としても又その整理のためにも、すでに自然科学的諸法則を云い表わす公式の方程式的処理や、根本概念の分析定着が必要であると共に、逆にこの方程式や概念を決定するものが、又元来実験や統計だったのである。(社会科学に於ては実験という操作は一応大した役割を有たぬと考えられているように、統計と操作は自然科学に於ては今の処事実重大ではないが)。さてこうした観察・実験・統計・数学的解析・概念分析などが自然科学の科学手段である。
科学方法は之に反してかかる科学手段を夫々の必要な操作として選択・結合・活用する処の総体的な組織的な処理を指す。かかる方法は一口で云えばオルガノン(論理)である。この論理=科学方法は又研究方法(Forschungsweise)と叙述方法(Darstellungsweise)とに区別される。前者は論理が自然科学的研究材料を征服して行く前進の過程であり、後者はこの過程を逆に辿って整頓することによって論理的・表現的な形態を之に与える仕方を指す。この往相と還相とが一環となることによって、自然科学(一般に科学)の方法の目的が完成するのである。表現形態を取り得ない研究は何等実質的な研究でなく、科学の発達に資する筈はあり得ないからだ。――この研究方法と叙述方法とを貫いて論理が研究用具(オルガノン)として一貫するのであるが、この論理に形式主義的論理(形式論理学)と弁証法との二つの対立した立場があることはよく知られている。事実の問題として、自然科学に於ける科学手段の操作や科学方法の用途に於て、自然科学者が意識するとしないと、又彼等の自分自身の作業に対する自己解釈の如何とに関係なく、直線的に又廻り途をしながら、方法は弁証法を追跡しつつあるのである。之は「自然の弁証法」(所謂自然弁証法)に関する重大な一側面である。
自然科学のかかる方法=論理は、それ自身すでに哲学を意味していたが、自然科学の方法=論理は又一方に於て世界観に連っている。そして世界観とは他の意味に於ける哲学のことを指すのであるから、今度はここでも亦自然科学は哲学に接続している。蓋し哲学の側から云えば、論理と世界観とは切実に連絡しているのであって、世界観を整理した結果が論理であり、理論によって構成されたものが新しい世界観である。自然科学は哲学のこの構造に、恰も陥ち込みでもするように当て嵌るものなのである。――自然科学は歴史的に見れば元来哲学そのものであったし又哲学の一種となることによって夫から分離して来たものであった。之は哲学的世界観の検討・整理として、又更に新しい哲学的世界観の根拠を提供するものとして発達した。之が自然科学の歴史的発展であり、その論理方法の発達なのである。従って自然科学は、今日でもなお哲学的世界観によって[#「よって」は底本では「よつて」]指示され動機づけられて、そして之によって意識的に促進されたり阻害されたりしていると共に、同時に又夫々の哲学的世界観を具体的にし、豊富にし、之を確固にし進展させるに重大な寄与をなしている。
観念論的哲学の世界観が、ブルジョア文化圏に於て一半の勢力を占めている国々に於ては、物理学者や生物学者達が、如何に観念論的な自然科学的「結論」を導き出しているかを見るがよい。曰く物質の消滅・因果律の否定・活力説・神秘的な形を取った全体説など、之によって自然科学の科学的発達は名目上阻害され、廻り途をしなければならなくされている。そしてこの自然科学的「事実」が如何に又観念論的世界観の支柱となりつつあるかも見ればよい。曰く唯物論の陥落・自然科学乃至科学の無能・必然性の否定、信仰主義等々。之によって世界観そのものが歪曲され、例えば社会科学的認識などが極度に妨害されるのである。――処が実は、この自然科学的「事実」や「結論」は之を唯物論的にありのまま
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