ニその意識の成立とに関係なく運動する世界が広く自然なのである。その意味に於てこの自然は哲学的範疇としての物質と呼ばれてよいものである。――自然科学とは、であるから第一義的に物質と呼ばれるもの(第二義的以下に物質と呼ばれるものは沢山あるが)を研究対象とする科学である。
[#1字下げ][#小見出し]二 諸分科科学の関係[#小見出し終わり] 自然科学はその研究の対象である自然の種類に従って、即ち自然の夫々の発展段階に従って、分類される。第一に有機体を除く限りの無機界を考えることが出来る。(但しここでいう無機界とは所謂無機物の世界のことではなくて有機物質もそれが有機体の組織から離れてある限り無機界にぞくする。)有機界と無機界との区別は、自然科学が進歩するに従って段々不分明になって行くだろうと考える人が或いはあるかも知れない。併し実はそうではないので、之は例えばかつて有機物質と考えられていた尿素が無機物から無機的に製造されるようになった、というような場合と問題は根本的に異っている。(有機体は単なる有機物ではない。)有機体と無機物とを区別するものは生命現象のある無しである。原生動物を無機物から人工的に造り出すことは現在すでに不可能ではないが、之は一種の原始的な生命現象を生じるような無機体の高度の結合を発見出来たというまでであって、生命現象が無機界現象に還元されたことを意味するものではない。生命現象はその生物学的解釈、即ち機械論又は活力説による解釈の当否に拘らず、生命現象であって、之と無機現象との区別がこの解釈の如何によって消滅するのではない。少くとも生命現象と無機現象との間には根本的な区別があるのであって、生命現象の一つの特徴である有目的的に見える行動的運動現象が、仮に単に極めて高度に複雑な原因に基く機械的運動に他ならぬとしても、この高度の複雑さそのものが、生命現象を他の無機現象から区別する本質的な契機なのである。
さてこの無機界の自然を対象とするものが物理学である。尤も常識的に云えば化学現象と物理現象というように、物理学は化学から区別されているが、夫は全く常識的な便宜に基くことで、化学プロパーの発達は実は、物理学を具体化することによってみずから本来の物理学に帰着しつつあるのが周知の事実である。物理学と化学プロパーとは今日では本質上全く同一の自然科学である。特に無機自然界の基本的な問題である物質、特に又物質構造・原子構造の理論に就いて考えれば、この点最も明らかだろう。ただ物理学の方が物質の一般的なそして本質的な関係から問題を出発させるのをその歴史的な伝統とするに反して、化学の便宜上の目標は物質の夫々特殊な場合のそして現象上の関係を、さし当りのテーマとして取り上げる、という区別は認めることが出来る。だがこの事実は二つの科学がその本質を同じくするということの証明にこそなれ、二つのものの根本的な差異を意味するものではない。
だがこの点に連関して、物理学乃至化学と数学との関係を明らかにしておく必要がある。物理学の対象は物質の一般的の本質関係に関し、之に対して化学の対象は今の処何と云ってもさし当り物質の夫々特殊な現象関係に関すると云ったが、少くともこの区別は、物理学が化学に較べて数学の応用に於て卓越しているという事情となって現われている。一体物理的と云えば数学的ということに対立するのであり、単なる数量的空間的なものではなくて正に物質的な性質を云い表わすのであるが、それにも拘らず物理学の根柢或いは頂点に力学なるものが控えている。力学(Dynamics, Mechanik)は元来物質の持つ力関係乃至運動関係を最も一般的に対象とするものであるが(運動論の方は特に Phoronomie とか Kinematik とか呼ばれる)、併しその実この力関係乃至運動関係を物質の其他の物理的性質から抽象して了っているので、一見非物理的な従って可なりに純数学的な部門となって現われる。数学はこの力学を通じて最も原則的に組織的に物理学に適用される。之は化学プロパーに於ては必ずしも常にそうだとは云えないことだ、尤も理論化学=物理化学なる化学の特別な部門は別として。
或る哲学学派はそこで、物理学が化学などに較べて何等かアプリオリな立場を含むものだと主張する。数学は理性や悟性からアプリオリに由来すると考えて、従ってこの数学が数量的に又空間的に適用される処の力学を根柢とする物理学は、それだけ先天的=先験的なものだと云うのである。だが力学が数学の殆んど完全な支配下に立つのは、数学が理性や悟性からアプリオリに由来するからではなくて、実は単に力学が物質の抽象的で又最も一般的である諸属性(数・空間・時間・運動)を専ら対象とするからなのである。そしてこういう物質のより一般的な又より抽象的な関係を取り上げることが、他ならぬ数学なるものの所謂先天性だったのである。(但しこの点多くの異論を期待しなくてはならぬが。)だからつまり物理学乃至力学が数学の適用を受けねばならぬということは、物理学が物質の最も一般的で又最も抽象的な関係から問題を提起して、之を次第により特殊なより具体的な物質の属性に及ぼすものだということであり、それを末端の方から見れば化学となるというわけである。
だが云うまでもなく一般的、抽象的な物質の属性から問題を発足させることは、その発足をいつもやり直さなければならぬということを約束する。より特殊なより具体的な物質の属性にわけ入って行った結果、もう一遍物質の一般的、抽象的な属性を抽象し直さねばならぬということが必ず出て来る。この現象は物理学の革命とか危機とかとして云い表わされる。相対性理論による空間・時間の観念の変革や、量子理論による因果律の観念の変革やが之である。
物理学乃至力学が最も精密な自然科学だというのは以上の消息を指すのであるが、化学となればもはやこの精密性は信用されていない。というのは他ではないので、化学は物質の諸関係を従来単に現象的にしか定式化し得なかったからである。処が生命現象、有機体を対象とする生物学になれば、愈々その精密性を失うものだと見られている。生命現象は極めて高度な複雑な物質の特殊な属性だから、その連関の研究はなおまだ現象的な観点に止まらざるを得ないのはやむを得ない。だが困難の原因はそれだけではないので、ここに新しく登場する個体という範疇があるからである。
物理学乃至化学のプロパーな場合には、個体という観念は何等科学的な範疇ではない。物理現象や化学現象は一つ一つの個体に単位をおく現象ではなかったからだ。物理学や化学が個体という範疇を必要とする場合は天文学や地理学となる。そこでは個々の名をつけられた物体が(もはや単なる物質や物質塊ではない)、太陽や火星や地球が、問題となる。(思うにかかる物理的、無機的、個体を個体なりに最も抽象的に一般的にテーマとするのはトポロギーなる幾何学だろう。)処が生物学になるとこの個体がその個体らしい特色を前提として登場して来る。生命現象とは之である。ここに生物学がすぐ様には精密になり得ず、又有機体が無機的自然と区別される標識も発見されるのである。
[#1字下げ][#小見出し]三 社会科学との関連[#小見出し終わり] さて以上のようなものが自然科学の諸部門であるが、自然科学はすでに云ったように社会科学に直接隣接している。終局に於て社会衛生の問題に帰着する医学技術上の諸問題は、云うまでもなく基礎医学に科学的根拠を有っているが、その基礎医学の可なりの部分が生物学(乃至広義の生理学)にぞくしている。そして特に生物進化理論は社会の生物学的基礎に直接連っているから、進化理論と社会理論との間には緊密な連関が横たわっている。例えば産児制限問題や優生学上の問題や、更には人種問題、人口問題までが、何等か生物学的解決に俟つと考えられ易い。社会法則さえが往々進化法則によって説明され得ると考えられ易い。併し云うまでもなく社会は自然の必然的な発展物ではあるが、社会の運動法則は決して自然法則そのままでもなければ、又それの単なる変容でもない。だから医師風の社会観や社会政策論や、社会ダーウィン主義などは、社会科学としては根本的な誤りから出発するもので、生物学の社会科学への無条件的な侵入は甚だ重大な結果を産む誤謬であるが、併しかかる誤謬が比較的安易に発生出来るということは、この二つの科学領域が如何に直接な連絡を有っているかを示している。
だから例えば生物学と云っても、之を物理学(乃至化学)から切り離して問題に出来ないのは云うまでもないばかりでなく、之を社会科学と切り離してさえ充分な観点を失って了うということを注目しなければならない。だがこの自然科学と社会科学との連関は、決して生物学にだけ特有なものではない。一切の自然科学が社会科学と或る根本的な連関に立っているということを、特に今注目しなければならない。ここで技術学(乃至ルーズに云えば技術)と自然科学との関係が最も重大となる。
数学―物理学―化学が狭義の技術学(Technologie)即ち工学(Engineering)と事実上密接に結合していることは何人も知っている。だがこの結合に就いての理解は、必ずしも同じではないし又根本的でもなければ正当でもないのが常である。普通技術学は自然科学の応用だと云われている。というのはまず自然科学が原理的に研究されて、それがその後発見された必要に応じて実際問題に応用された時、それが技術学というものだと考えられている。なる程一応そういう風に外見上は見えるのであるが、自然科学者自身がその研究の主観的な意識に於てどう意識していようと、自然科学の原理的な研究は、概括的に云えば凡て直接にか或いは間接にか、社会の技術的従って又技術学的必要と目的とによって、客観的に要求されたものであって、自然科学一般の発達の歴史は、実は社会に於ける生産技術の要求に従って、技術学的な目的に沿って、それから又技術学的な与件に立脚して、初めて展開して来たことを示している。ただその要求なり目的なり与件なりが、自然科学の研究や発見や創意にまで機械的に露骨には反映しないから、自然科学者自身さえが之を主観的には自覚し得ない場合の方が多い、というまでなのである。だから自然科学は技術学へ単に偶然に付けたしのように応用されるのではなくて、初めから応用されるべき約束の下に応用されるに他ならない。
生物学と雖も之と少しも異るものではない。生物学の発達は主として農業技術学上の必要と目的との下に、農業技術学の発展段階を与件として、初めて行われる。ダーウィン主義乃至進化論も、それがダーウィンによって実証的な根拠に立った科学的理論となるためには、この農業技術学上の発達に依存しなければならなかった。
自然科学は一般に産業技術学を離れて理解されることを許さない。云うまでもなく両者のこの関係は決して簡単でなく又単純ではないのだが、この関係への注目を一貫することによって初めて、自然科学の生命が、その本質と運動とが、実質的に理解出来る。自然科学の発達が、個々の天才人の天才的能力や、又は人間一般の理性や悟性やそう云った精神の発現に負う処は大きいに相違ないが、そういう精神力の発現自身が、なぜそういう内容となって又そういう時に、行われねばならなかったかが、技術学上の根拠に立つのである。そしてここにこそ自然科学の具体的内容があるのである。もしそうでなくて、単に精神的な表現だと云うならば、自然科学はなぜ自然科学となって芸術や何かにならなかったかが説明出来ないだろう。社会主義も日本主義も同じく頭脳の産物には相違なかろう。だが頭脳の所産だということは何等社会主義の説明にもならず日本主義の説明にもならぬ。社会主義が日本主義と異る所以《ゆえん》、即ち社会主義が一つの思想[#「思想」に傍点]である所以は、それが頭脳の所産であることにあるのではなくて、正に社会人の生活の物質的根拠に照応している処にあるのである。
処で技術学は云うまでもなく社会に於
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