ie im Umriss, 1910.  L. T. Hobhouse[#「L. T. Hobhouse」は斜体], The Metaphysical Theory of the State, 1918.  L. Stein[#「L. Stein」は斜体], Soziale Frage im Lichte der Philosophie, 1892, 3u.4[#「3u.4」は上付き小文字]1923.  R. Michels[#「R. Michels」は斜体], Probleme der Sozialphilosophie, 1914.  T. Litt[#「T. Litt」は斜体], Individuum und Gemeinschaft, 1919.  A. Vierkandt[#「A. Vierkandt」は斜体], Gesellschaftslehre, 1923, 2[#「2」は上付き小文字]1928.  R. Worms[#「R. Worms」は斜体], Philosophie des sciences sociales, 3 vol., 2[#「2」は上付き小文字]1913−20.  P. Barth[#「P. Barth」は斜体], Die Philosophie der Geschichte als Soziologie, ※[#ローマ数字1、1−13−21] Tl., 3u4.[#「3u4.」は上付き小文字]1922.  O. Spann[#「O. Spann」は斜体], Kategorienlehre, 1924; Gesellschaftsphilosophie, 1928.  M. Scheler[#「M. Scheler」は斜体], Wesen und Formen der Sympathie, 1923, 3[#「3」は上付き小文字]1926.  V. Pareto[#「V. Pareto」は斜体], Trattato di sociologia generale, 2 vol., 1912; 3 vol., 2[#「2」は上付き小文字]1923.  O. Spengler[#「O. Spengler」は斜体], Untergang des Abendlandes, 2 Bde., 1918−22(村松正俊訳「西洋の没落」二巻、大正十五年).  P. Natorp[#「P. Natorp」は斜体], Sozialidealismus, 1920, 2[#「2」は上付き小文字]1922.  R. Stammler[#「R. Stammler」は斜体], Wirtschaft und Recht, 1896, 5[#「5」は上付き小文字]1924.  M. Adler[#「M. Adler」は斜体], 〔Kausalita:t und Teleologie im Streite um die Wissenschaft〕, 1904; Das Soziologische in Kants Erkenntnistheorie, 1924; Kant und Marxismus, 1925.  E. Lederer[#「E. Lederer」は斜体], 〔Grundzu:ge der o:konomischen Theorie〕, 1929, 3[#「3」は上付き小文字]1931.  H. Cunow[#「H. Cunow」は斜体], Die Marxsche Geschichts−, Gesellschafts− und Staatstheorie, 〔Grundzu:ge der Marxschen Soziologie〕, 2 Bde., 1920−21, 4[#「4」は上付き小文字]1923.  M. Weber[#「M. Weber」は斜体], 〔Gesammelte Aufsa:tze zur Wissenschaftslehre〕, 1922; Wirtschaft und Gesellschaft, 1922, 2[#「2」は上付き小文字]1925.
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[#中見出し]ジャーナリズム 【英】journalism【独】Journalismus【仏】journalisme[#中見出し終わり]
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 【意義】  ジャーナリズムを一種の資本主義的商品生産現象とのみ見ることは誤っている。それは高々近代市民社会的ジャーナリズムに就てだけ云えることで、近代的所産であるプロレタリア・ジャーナリズムに就てはすでに大部分当て嵌らない規定であるし、原始社会のジャーナリズム現象に就ては殆ど全く通用しない規定になるからである。ジャーナリズムは例えば文学とか法律とかが古来の各歴史的社会に共通な現象であるように、一つの共通な社会現象であって、之を表現報道現象[#「表現報道現象」に傍点]と呼ぶことが出来る。単に表現するだけではジャーナリズムではないが、併し単に報道(公示・通信)するだけがジャーナリズムではない。報道の意図の下に表現することがジャーナリズムである。この意味に於ては文学も哲学も一般言論と同じくジャーナリズム的意味を有っている。教育も亦之と同じにジャーナリスティックな機能を果す。この点は極めて明かで、主に学校乃至大学に於ける教育に就て云えば、講義・演習・ゼミナール・講読・其他のアカデミー的形態自身がすでにジャーナリズムの一部分であることを示している。此等は演説・説教其他と並ぶ一連のものであって、観念を表現し且つその表現を公示通達する形態に他ならぬからである。近代資本主義的学校教育ではこのジャーナリズム機能が特に著るしく商品生産の形式を取っていることは云うまでもない。
 【教育的機能】  併し最も重大なのはジャーナリズムの教育機能である。この際主として社会教育を考えるべきであるが、近代はこの社会教育が主として新聞・雑誌・単行本・冊子・ラヂオ・レコード・ステージ・スクリーン等ジャーナリズム・プロパーの乗具を通して与えられている。ジャーナリスト(記者・寄稿家・評論家――これは夫々別な規定である)は学校教育者と一般文筆家に跨って存在し得るが、学校乃至大学の教育にこの社会教育の主力たるジャーナリズム・プロパーを利用することは今日まで決して充分だとは云うことが出来ない。その原因の一つはブルジョア・ジャーナリズムが学校乃至大学に於てのような目的意識的な教育機能を有たずに殆ど全く社会に於ける自然発生的な所産であることにある。つまり市民的学校教育はブルジョア・ジャーナリズムをさえ敬遠しなければならぬほど、社会に於けるジャーナリスティックな使命から浮き上って行くという法則を持っていることが判る。
 ブルジョア・ジャーナリズムは之まで多くの場合、一つの矛盾を含んでいる。イデオロギーをその商品とすることによって、ブルジョア・ジャーナリズムはその本来の社会的使命であるブルジョア・イデオロギーを或る限度に於て犠牲にせざるを得ない。ここに各種の反ブルジョア的(自由主義的・社会主義的)イデオロギーの表現報道の余地が残される。ここに現代資本主義的ジャーナリズムの特有な教育機能の一応の進歩性が横たわる。だが之は無論まだ所謂プロレタリア・ジャーナリズムではない。ソヴィエト・ジャーナリズムは進歩的教育機能に於て著るしく発達していると見られている。


進化論 のうち
 【進化論と社会学】  生物学及び古生物学・地質学等の博物学(自然史)は十九世紀の後半に著るしい進歩を遂げたが、その結果第一に発達したものは社会の生物学的有機体説である。一般の社会有機体説または全体説は旧くから広く行われていたが、それが特に生物学的な実証的根拠を与えたように見える。リリエンフェルト P. v. Lilienfeld(1829−1903)・シェフレ 〔A. E. P. Scha:ffle〕(1831−1903)・ヴォルムス R. Worms(1869−1926)・ノヴィコフ J. Novikov(1849−1912)等によれば、社会現象は一種の生物的有機体の現象に他ならぬ。だがこれは結局、社会を生物体に類推したものに過ぎない。第二は人種論的社会理論である。人種・淘汰・遺伝等が社会の最大な決定要因だというのであってゴビノー J. A. de Gobineau(1816−82)やラプージュ V. de Lapouge(1854−1936)等が之を代表する。この理論によると世界の人種の間には先天的に優劣の差があるのであって、今日の人種的排外主義の理論的根拠の有力な一つとなっている。だが元来、社会関係がこのような生物的関係に還元出来ないことは論を俟たない。第三は生存闘争(生存競争)に関する生物学的理論を任意に社会機構にあてはめる場合であって、ノヴィコフやヴァッカロ M. Vaccaro が之を代表する。今日社会ファシズムの一支柱となり好戦主義の根拠となるものの一つである(例えばヘッケル)。だがクロポトキン P. A. Kropotkin(1842−1921)やバジョット W. Bagehot(1826−77)の相互扶助論が指摘しているようにこれは生物界の事実にも合わないし、又元来ダーウィン説の非科学的な濫用に他ならない。
 進化論・ダーウィン説の科学的核心は、自然界の歴史的発展の思想に実証的な根拠を与えたことであるが、之を最も正当に社会理論に適用したものはマルクス主義に他ならない、その意味で唯物史観は「社会の自然史(博物学)」と呼ばれている。
[#改段]


[#1字下げ][#大見出し]3 『現代哲学辞典』[#大見出し終わり]


[#ここから中見出し]
自然科学
  (英 natural science, 独 Naturwissenschaft, 仏 science naturelle)
[#ここで中見出し終わり]
[#1字下げ][#小見出し]一 自然科学の概念[#小見出し終わり] 自然科学とは社会科学から区別された一群の諸科学を指す。社会科学が人間の歴史的社会を研究対象とするに反して、自然科学は、この歴史的社会の自然物的基礎となり又その歴史的発達の先行段階である処の自然を研究対象とする。自然科学が或る一定の共通な研究方法に基くことを理由として、逆にこの一定の研究方法に基くものを凡て自然科学と呼び、之を之とは異った研究方法に基くものと考えられる文化科学に対立させる種類の見解は、色々の形で相当広く行われている(例えばドイツ西南学派)。併し之は科学の単なる研究主体側の主観に由来する研究方法だけを目標として科学を分類することを意味するので、一般に科学の、従って又自然科学の、特色を人工的なものの内に認めることを意味する。処が自然科学の特色は云うまでもなくその人為的な研究態度や観念上の観点に集中され得るものではない。自然科学はその研究の対象を自然とするのであればこそ自然科学の名に値いするのである。
 云うまでもなく自然という観念は多義であり、従ってこの言葉によって云い表わされる所謂自然なるもの自身が何であるかは単純には判明でない。人間や動物の心理現象や人文地理現象などは果して自然であるかないか、単純には断定出来ないというだろう。だが之は実は、最もプロパーな意味に於ける所謂自然と、自然ならぬ而も自然からの発展である処の人間史的社会との、中間領域又はその中間領域から抽象された諸断面のことであって、従って却って之によって自然なるもののプロパーな意義が明示されていると云うべきである。(哲学者が古来様々に考えて来たフュージスとかナトゥーラとかをこの際問題にする必要はないだろう。)今日の所謂自然科学が対象とする自然なるものがどういう領域のものを指すかは、寧ろ常識的に知れ亘っている。吾々はかかる所謂自然を頭の中心に置いて、この自然に関する多義な諸観念を整理することが出来る。つまり吾々人間の存在
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