s)等が夫である。併し之はいずれも、観念論にも慊《あきた》らず、さればと云って唯物論を名のることにも一種の羞恥を感じる処の、実際の意図に於ては唯物論に向っているが意識された意図に於ては之を承認することの出来ない処の、一種の観念論者の自己弁解のための名称と見ていい。即ち実在論(それには無限に様々の種類があるが)とは唯物論とみずからを名のる勇気のない場合の、唯物論の代用物に外ならず、曖昧にされいつも抜け道を気にしている処の唯物論である。
 実在論と直接関係あるものに他に経験論がある。経験論は先天主義(先験主義乃至合理主義)に対立するのであるが、カント(I. Kant)の特徴的な表現を用いればカントの体系の如きは先験的観念論であると同時に経験的実在論であると云われる。ここでも見られるように経験論の立場に立つ時、認識理論はおのずから実在論とならざるを得ない。―併し経験論は必ずしも唯物論的なものに限らず(フランシス・ベーコン F. Bacon の唯物論とバークリ Berkeley の観念論、唯心論とを比較せよ)、経験は主観的なものとも主客合一のものとも考えられる。従って実在論にも亦、それが経験的
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