Bイデア・観念を主観にまで結び付けたものは(多くの変遷を辿った結果であることは抜きにして)、聖アウグスティヌス(St. Augustinus)であった。キリスト教的信仰の体験にまで来て初めて落ち付くことの出来たアウグスティヌスは当然なことながら、事物の価値の判別を、それが内面的であるか外面的であるかに置いた。蓋し内面的なもののみ宗教的体験の名に値するのである。だが内面的なもの、それは意識である。かくて観念は意識となる。イデアは意識にまで主観化される(今日の欧州語 〔Idea, Ide'e〕 は茲から来る)。かくて変質された唯心論はスコラ哲学の底を潜って、近世の初めにデカルト(R. Descartes)に現われる。デカルトの有名な哲学方法によればまず一切のものは疑われてかからなければならない。だが疑うということ自身、即ち私が疑うということ自身、は疑うことが出来ない。私が意識するということ(我考う―cogito)は疑えない。そうすれば少くとも私がある[#「私がある」に傍点](sum)ことだけは確実でなければならない、そういう結論に到着する。今や意識は単なる意識ではない。それは意識する自我の有
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