、一八八六年シカゴに移るまで其位置に止まる。一八八六年シカゴで『社会主義者の認識論の領域への進撃』(〔Streifzu:ge eines Sozialisten in das Bereich der Erkenntnistheorie〕, 1887―石川準十郎訳、マルキシズム認識論)を書き、翌年絶筆たる『哲学の実果』を脱稿した。同年シカゴ無政府党事件によって『シカゴ労働者新聞』の編集者達が逮捕されるに及び、社会党は無政府党と絶縁しようと欲したが、ディーツゲンは却って自らその主筆となることを申し出てその位置に就いた(当時社会党のゾルゲと交わる)。彼は同誌に拠って社会主義者と無政府主義者とが必ずしも相容れないものではないと説き、ために一部の社会主義者の反対を買った。併し、元来彼の哲学によれば、「ただ適度の区別だけが二つのものの矛盾対立を解くことが出来る」、絶対的な本質的な区別は形而上学に陥るものであった。無政府主義を社会主義から絶対的に区別して、之を単に排撃するのは正しい政策ではない。なる程無政府主義を終局目的とするのは愚の至りであるが、併し之が社会主義の前段階として価値を有つことを忘れて
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