ノ弁証法の正反対物に外ならぬ。弁証法に於ける同一は差別を通っての同一であって、差別を抜きにしての同一ではない筈である。弁証法は安易に考えられると往々同一哲学となる、然るに凡そ同一哲学は弁証法の正反対物なのである。ヘーゲル哲学を批評したと想像されるシェリング哲学の最高潮期(自由意志論時代)を支配するものは、弁証法一般に関する限り、矢張この同一哲学であったと云えるであろう。
 唯物弁証法に就いては、ただ次の事だけを語っておこう。之はマルクス及びエンゲルスによって、そして又ディーツゲン(J. Dietzgen)によっても明白にされた所の、一般に弁証法なるものの最高の帰結である。ヘーゲルの観念論的弁証法が真に弁証法的となれば取りも直さず之になるのである。さてこの場合弁証法は相互に連関した三つの部門を有つ。(一)[#「(一)」は縦中横]、弁証法的論理、(二)[#「(二)」は縦中横]、唯物史観、(三)[#「(三)」は縦中横]、自然弁証法。
 なお近来バルト(K. Barth)、ブルンナー(E. Brunner)等は、神学をば、人間の達し得ない実在たる神と人間との間の根本的な矛盾を取り扱うべきものと
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