A社会民主党の第二回大会(一九〇三年)を経るまでは、この二人の代表的闘士は恰も各々の分担を協定したかのように夫々政治闘争と理論闘争とを以て相寄りながら活動することが出来た。両者は機関紙『イスクラ』(火花)と『ザリャー』(黎明)とに拠って経済主義への偏向の克服と中央集権的革命党への結成とのために戦ったのである。第二回大会に当ってボリシェヴィキとメンシェヴィキとが分裂するに到った時、『イスクラ』をボリシェヴィキの指導の下に編集すべく選ばれたのもこの二人であった。之に拠ってプレハーノフは昔日の才能をボリシェヴィキとして再び思うままに発揮することが出来た。処がその後数ヵ月を出ない中、彼はイスクラ編集者としてメンシェヴィキの人々をも迎える事を提言するに到ったが、レーニンは之を却けてイスクラを脱退した。かくてイスクラはメンシェヴィキのものとなり、レーニンと袂別したプレハーノフは爾後暫くの間全くのメンシェヴィキとして止まった(『吾等の批判者の批判』が一九〇六年ロシア語で出版された)。併し社会民主党がその苦難期(一九〇七年後の数年間)に入るや、プレハーノフは結果に於て再びボリシェヴィキの味方となり党の
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