ソだろう。思うにこの三者は本質に於て同一なのだ。従ってその言葉の上での区別は何でもいい。併しそれにも拘らず、弁証法的論理(即ち弁証法)に、認識論としての契機と論理学の契機とを認めるならば、一切の論理学的問題は極めて系統的に理解出来ることになるだろう。
もう一つの問題は、弁証法的論理学と形式論理学との関係である。もし前者が正当ならば後者は成り立たない筈である。全くその通りで、弁証法的論理学という立場は、形式論理学という立場を許すことは出来ない。だがそうだからと云って、同一律や矛盾律が誤謬だということにはならぬ。之は弁証法的論理――矛盾の論理――の一断面、一契機を云い表わす限り、真理なのである。ただこの形式主義的論理法則が、一つの形式主義という立場の支柱に数えられる時、その法則の運用が誤謬となるのである。
最後に問題になるのは、哲学と論理学との関係である。エンゲルスは今後哲学は形式論理学と弁証法だけになるだろうと云っているが、この弁証法(夫は形式論理学の法則を止揚し保持している筈だった)なるものが今まで述べたように、内容の極めて豊富なものなのである。豊富な哲学の根本原則は、凡てこの弁証
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