ル証法の世界に結びついて来るのである。
 マルクス・エンゲルスの弁証法的論理学は多くの自称マルクス主義者によって色々に歪曲された。或いは之を社会の歴史の運動に於てしか適用例を見出し得ない関係であると云って、之を主観主義化したり(ルカーチ・コルシュ等)、或いは之を単に事物の客観的法則に過ぎぬものとして、之が人類の実践と共に進んで来た認識の歴史の要約である点を無視したり(プレハーノフ、デボーリン等)、之が人間の目下の思惟の論理学的な用具であるという方法論としての役割を忘れたり(プレハーノフ)して、之を客観主義化したりした。併しレーニン[#「レーニン」は太字]の哲学的労作が次第に公表されるに及んで、弁証法とは論理学のことであり又認識論のことであるという点が、再び明らかにされることとなった。弁証法と論理学と認識論との同一のこの再認識は、今日「哲学に於けるレーニン的段階」と呼ばれている。
 問題はこの三者の同一ということの意味である。之を本当に絶対的な同一と見るならば、議論はそこで打ち切りになる。そして単に、改めて、認識論や弁証法や論理学が夫々何であるかという、旧に帰った原始的な疑問の出るのが落
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