フための観念論的弁証法が、ヘーゲルの論理を制約しているのである。
 ヘーゲルは元来事物そのものの運動を弁証法的に把握しようと欲した。その把握には概念を必要とする。従って弁証法は概念に固有なものでなければならない。処が元来ヘーゲルには事物を現実的に処理することよりも、事物の持っている意義を、世界の有つ意味を解釈することを目的としていたのである。世界史はだから彼によると、神の世界計画が如何に合理的に実現したかという神義論だというのである。世界の現実の始まりは、神の世界計画などにはなくて、星雲の横たわる空間か何かであったに相違ない、それを神の世界計画に始まると考えるのは、世界に向ってキリスト教神学が押し与えている処の意義をば、始原の問題とするからこそだ。
 処で事物の意味を明らかにするものは、云うまでもなく例の概念であるが、今この意味の解釈だけがその認識目的だったとすれば、当然この概念の解釈が唯一の認識手段となるだろう。事物そのものではなくて、事物の意味を云い表わす概念そのものが、テーマとなり主題となり主体となる。かくて概念は観念的な主体にまで独立化せざるを得ない。――こうやってヘーゲルの弁
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