であったが、少年期に入るに及んで温順となり鞣皮工の労働の傍ら文学、経済学、哲学等の研究にいそしむ。一八四五―四九年の間独学でフランス語を学び、フランス経済学者の研究を通じて社会主義に傾倒し、後マルクス・エンゲルスの共産党宣言を読むことによって明白な階級意識を有った社会主義者となる。一八四八年の革命に参加したために一八四九年アメリカに亡命せざるを得なくなり、其処で鞣皮工、ペンキ職、教師等の労働にたずさわりながら各地を放浪し、英語を修得した。一八五一年故郷(ウッケラート)に帰り二年後愛妻を有つ。ウィンターシャイトで貿易商、鞣皮工等の職を営む。一八五九年再び渡米して南部地方に住む。間もなく南北戦争の際北方に同情する彼は故郷に帰る(一八六一年)。そこからセントペテルスブルクの官営製革場の監督としてロシアに招かれ、軈《やが》て又ドイツに帰来、ジークブルクで独立の鞣皮工場を経営す。後再びセントペテルスブルクを訪れた。ロシア滞在中主著『人間の頭脳、労働の本質、一職工の書ける。純粋理性及び実践理性の再批判』(Das Wesen der menschlichen Kopfarbeit, dargeste
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