。
それ故プラグマティズムは、真理に就いて(又その哲学観全般についても)自から称する通り、相対主義なのである。真理は絶対的なものでなく人間社会に即して人間的に(「人本主義」)相対的なものに過ぎないという。世界乃至宇宙も、亦、絶対性を有たず即ち唯一性(一元性)を有たず、多元的な宇宙として相対化されねばならぬという。之は云うまでもなく真理なるもの又実在なるものの観念を無理に強制するものであって、真理の実際性を強調するに際して、その実際性・実践性なるものを初めから客観的実在と無関係に規定し得ると思ったことから発生した処の、避け難い不始末だったのである。
ジェームズが好敵手として選ぶ者はヘーゲルの哲学、その体系・形而上学・絶対主義である。彼によればヘーゲルの範疇組織というものほど真理としての有用性を欠いたものはない。哲学は閉じた体系ではなくてどこまでも閉じることのない方法でなければならぬ。従って夫は何等の形而上学(閉じた体系)でもあってはならぬ。かかる絶対主義を結果する所以はヘーゲルに於いてのように正に、主知主義に存する。知識を実際的行動なるものから引き離して夫から出発するが故に、知識自身が少しも実際的なものとして把握出来ないばかりでなく、知識が実際的行動の一部に過ぎないという点が、遂に見失われるのだという。この反主知主義はイギリスの経験論に由来する処の少くないのは云うまでもないが、認識と生活とに関する進化論的思想に基く処が極めて多い。現に同じく進化論に由来するマッハの思惟経済説は一種のプラグマティズムに数えられているのである。場合は可なり異るが、同じ仕方でニーチェも亦一種のプラグマティストに数えられ得る。
ジェームズのプラグマティズムを発展させたものはアメリカのデューイ(J. Dewey)とイギリスのシラー(F. C. S. Schiller)とである。前者はジェームズに於けるインストルメンタリズム(道具主義)を徹底し、後者はその人本主義(ヒューマニズム)を誇張する。シラーによれば「人間は万物の尺度」である。(プロタゴラスのこの懐疑論的命題は近代ブルジョアジーの能動的命題となった。)かくてプラグマティズムに於ける主観論、観念論は次第に露骨となりつつある。
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参考文献――James, W., Pragmatism, 1907; Dewey, J.
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