ト斥ける。現実から出発する点に於て現実主義とも云うことが出来よう。この現実主義が不当に極端化されると併し、夫は現実との妥協主義又は物質生活の無条件的尊重主義ともなることが出来る。俗には往々唯物論という言葉をこの最後の意味に用いる。併し之は真正の唯物論とは殆んど何の関係もない。却って唯物論的世界観は、思想が希望に燃えている時や(ギリシアの自然哲学)、新しい理想に駆られる時(フランス啓蒙期の唯物論)にこそ、発生したのが事実である。認識論としては、唯物論は多く経験論(Empirismus)に結合したり(ホッブズ Th. Hobbes の場合)、感覚論(Sensualismus)に結合したりする(エルヴェシウス 〔C. A. Helve'tius〕 の場合)。(無論経験論や感覚論自身は唯物論ではない。ロック J. Locke の経験論はバークレー G. Berkeley の唯心論を結果したし、コンディヤック E. B. Condillac の感覚論はメヌ・ド・ビラン Maine de Biran の唯心論を結果した。)唯物論が之等のものに結合出来るのは、之等のものが実在論に帰着する場合に限る。認識論としての唯物論は―観念論に対する―実在論である。さてこのような現実主義的世界観及び実在論的認識論は、存在論としての唯物論の等価物でなければならない。
唯物論的存在論は一般に、物質を以て精神を説明する原理と考える。或いは同じことに帰着するが、物質が即ち狭義の存在だと考える。種々なる唯物論の相違は、この物質の概念の如何によって、又物質を以て如何に精神をも説明するかによって、与えられる。
古代ギリシアの哲学――人々は夫を古代ギリシアの自然哲学と呼んでいるが――は唯物論として始まった。タレス(〔Thale^s〕)に於ては存在の原理は水であった(尤もこの水は今は吾々の持つ水の概念ではないが)。それは何と云っても何かの意味の物質に外ならない。水は存在の原理であると共に、否あるが故に、又存在の生成の原理でもなければならぬ。存在の運動を与えるものも亦この水である。この物質は運動の動力を自らの中に持っている。人々はこの唯物論を物活論(Hylozoismus)と名づける。物活論的唯物論はギリシアに於ける代表的な唯物論者デモクリトス(〔De^mokritos〕)の単位物質―アトム―の思想となって現わ
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