翌ト、唯心論かそれでなければ唯物論かに所属する。何故ならば存在は最も含蓄ある意味に於ける精神と物質とに区別されるのが普通であるが、吾々はこの二つのものに対する第三の項を知らないから、存在の説明は是非とも、精神によって物質を説明するか、又は逆に物質によって精神を説明するかそのどれかの場合でなければならないからである。後の場合が、唯物論であり、前の場合が唯心論である。だから唯物論にとっては、もはや精神と物質とが存在ではなくて、物質こそ存在であり、存在ということが物質ということである、と同様に、唯心論にとっては、存在ということが精神ということである、存在は何か精神的なものでなければならないと考えられる。そしてあらゆる哲学は、このどちらかの存在の概念を自分にとっての存在の概念として、選ぶと云うのである。唯心論は観念を其中心問題として、選ぶのである。
処が注意すべきことは、存在という言葉は、哲学史の発生当時の条件から云っても、又吾々の日常的な思惟の約束から云っても、元来精神的なものを意味するよりも、寧ろ物質的なもの(それは主観を超越して独立に存するものである)を意味し勝ちだという点である。ここで、唯心論は、存在を存在として云い表わす代りに、之に対立する何かの言葉を選ぼうとする。唯心論によってはだから、存在なるものは存在ではなくて例えば観念であると呼ばれなくてはならなくなる。唯心論が今日一概に観念論と名づけられる所以である。だが、観念論という邦語は元来存在論に関するよりも寧ろ認識論に関する。夫は認識論上実在論から区別されて観念論と呼ばれるのである。そこでは実在―存在―そのものではなくて、実在に関する認識が―観念が―まず第一の課題として取り上げられねばならないと考えられる、存在よりも観念の方が、認識論上、先である、と云うのである。併しこの認識論上の観念論が存在論上の唯心論に、直接に対応する事は云うまでもない。――存在は、実在は、吾々の生活にとっては、現実である。で吾々の生活を指導する筈の世界観としては、存在乃至実在を原理とする唯物論乃至実在論に対応して、現実主義(之は色々不都合な連想を持つが仮にそう呼んでおこう)がある。これに対立する世界観は、理想主義と呼ばれている。そこでは現実―存在・実在―よりも先に、之を支配している、又は支配すべき理想が、原理であり又なければならぬと考えら
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