lであったと見ることが出来る。そのオルガノンも存在に対するこの弁証法的な見解から離れては無意味だったわけである。
形式論理学の一般的な特色は、後にヘーゲルが、それから之に従ってマルクスとエンゲルスとが明らかにしたように、事物をその固定性に於て把握することに存する。従って形式論理は、諸事物間のひたすらの区別と対立とを、無条件に絶対的に墨守する建前を持っているのであって、同一律(AはAである)、矛盾律(Aは非Aに非ず)、排中律(AはBか又は非Bであってその他のものではあり得ない)、がこの立場を最も端的に表わす論理法則となる。事物をこの論理によって認識しようとすれば、勢い、単に諸事物の精細煩瑣な区別と機械的な関係づけしか、その内容となることが出来ない。こうした機械論は形式論理学の最も著しい特色であるが、そのための方法が極めて精細に又大規模に発達したのがスコラ哲学に於てであった。そこでは概念の分析方法と既知概念からの演繹の方法とが、唯一の問題となる。一例を挙げれば三段論法の格(Figur)に関する形式的な整備などが夫であった。
スコラ哲学の解釈哲学(聖書・教理・文献の解釈)に反対し、従ってその方法たるスコラ的形式論理の分析的演繹の論理に反対したものは、自然を支配するために実験によって之を認識することこそ、唯一の知識乃至学問の途だと考えたフランシス・ベーコンであった。この場合ベーコン[#「ベーコン」は太字]は、云うまでもなくエリザベス王朝によって云い表わされるイギリス新興ブルジョアジーの論理学的代表者である。彼によれば聖書やドグマの代りに自然そのものを認識することが必要なのであって、そのための唯一の手段は、実験・観察に他ならない。処が之によって得た諸結果を総合するためには、例の概念分析的・演繹的・論理では何の役にも立たぬ。必要なのは従って、帰納という方法であり、この帰納法こそ新しい研究機関でなければならぬ(その著『ノヴム・オルガヌム』――新方法機関)。
この新しい形式論理は、一方に於てガリレイによって代表される自然の数学的研究方法との疎遠を別にすれば、全く近代科学乃至近代自然科学の根本的な認識目的に照応している。だが之によって、従来の所謂演繹論理学が成立しなくなるのでもなければ、又全く無用になったわけでもない。爾来形式論理学の教程は、演繹論理学と帰納論理学との二つの部分
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