ナあるとか、又は日本精神の表現であるとか考えられる場合は、夫はもはや通俗的な語法ではなくて、一定の哲学乃至世界観上の体系を想定した上での一つの理論的説明を意味する。即ち解釈学的な歴史哲学乃至歴史観へ夫は立脚する。ここにすでに日本精神という概念自身の理論上の疑問が含まれている。この意味に於て、日本民族乃至日本の、歴史的現実を解明乃至解釈する一つの原理として、日本精神なるものを持ち出すことは、一種の哲学的観念論に立脚するものである。
日本精神の提唱は、云うまでもなく今日に始ったのではない。併し之が一定の意図の下に、広汎に提唱され又強調され又流行し始めたのは、武力的侵略による満州国独立と、之をシグナルとする処の日本ファッシズムの急速な台頭以来である。日本精神は日本ファッシズムの諸イデオロギーの共通な根本観念であり、又実にその合言葉又はスローガンである。無論一般にファッシズムはその本質と名目上のレッテルとが一致しないという著しい特色を有ち、そのイデオロギーは何等その本質に相応するとは限らないのが常であるが、その意味に於てファッシズムはそのイデオロギーを一種のデマゴギーとしてしか持つことが出来ないのであるが、日本精神なるものも亦、日本ファッシズムのためのそうしたイデオロギー=日本主義の根本観念なのである。
元来ファッシズムは様々な形態と条件との下に高度に発達した諸ブルジョア国に於ける独占・金融・大産業・資本主義の行き詰りと内訌と腐敗との必然的な一つの著しい所産であって、無産者大衆の社会主義的組織が鞏固に社会変革的に発達していないにも拘らず、無産大衆の社会変革へのエネルギーが横溢しているような国に於て、各種の社会民主主義者の認容の下に、中農・小商人・軍人・官吏・意識の遅れた労働者、其他等の層の意識を通じて、独占・金融・大産業・資本がこの無産者の変革的エネルギーを強力的に抑制して自らの解体を延引しようとして用いる政治形態である。日本に於ては、その資本主義が世界的発達水準に達しているにも拘らずなお著しい封建制の残存物(軍閥・官僚・国家的家族制度・其他)に依存しているのであるが、そこで日本のファッシズムはこの封建的残存勢力を利用することによって初めて、純然たるファッシズムの道を開拓する他はない。そうでなくてもファッシズムは民族主義・国粋主義・ショーヴィニズム其他を介して封建化・原
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