フ個人的な利害に直接立脚しないことを建前とする。そうでなければ報道は公平と真実との外見を失うからである。報道者自身の個人的利害に直接立脚する特殊な報道は広告と呼ばれている。広告も明らかに一種の報道=ニューズであるが、ニューズ・プロパーと異る点は、ニューズが読者に一種の読む義務を負わせるに反して、広告は読者の好意ある閲読を希望するということである。普通広告は有料のニューズであるという風に規定されているが、その区別は寧ろ今云った点から派生するものである。報道と広告とのニューズとしての差別と同一性は、之を云い表わす各種の言葉の内にも現われている。Intelligenz, Anzeige, Announcement はどれも広告の謂であるが、その言葉の本来の意味は寧ろ報道を指している。
 文叢とは第一に論説、解説及び注解を含み、第二に評論、批判及び紹介を含み、第三に文芸を含む。第一は主として教導の機能を、第二は主として評価の機能を、第三は主として娯楽(Unterhaltung)の機能を果す。無論この三つのもの夫々の間に、又三つの機能夫々の間に、一定の連関と移り行きがあるが、文叢を広く批評と呼ぶことが出来る。さてそこで、報道と広告との連関はすでに述べた通りであるが、報道乃至広告とこの批評との連関を述べることが必要である。実は報道それ自身がその意図と効果から云って一つの批評的機能を有っている。ニューズの選択、書き方、載せ方などは、すでに一定の批評的態度に基かざるを得ない。逆に批評記事が一つのニューズに他ならぬことは云うまでもない。又広告の本質は元来自己推薦にあるが、そのためには一定の自己評価を下して見せねばならぬ、云わば之は一種の自己批評であり、或いは少くともその形を取らねばならぬ。批評自身は逆に又、広告の機能を営む場合がある。夫は主に新聞社組織或いはその背景をなす一定の資本、或いは広く資本主義社会そのもののために、宣伝の役割を与えられた時などである。
 新聞現象の根本規定は時事性にあると云われている。時事的とは世界の刻々の歴史的運動に現実的に沿うた活動的な観点を意味する。時事性の内容は第一に日常性である。日々(刻々・年々・月々)条件を新たにする事物の動きに就いて、その日々の特殊性を指摘するためには、日常性の原則が必要である。之は超時間的な形而上学的原則の[#「形而上学的原則の
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