メの間には多少場合の相違がある。階級性とは主として社会階級人の主観に基く主観的規定を指すのを常とし、之に反して党派性の方はより一層理論の客観的な論理的潔癖と首尾一貫性とを指すのを常とする。だが党派性も亦一つの主観性(但し客観性を有った処の)であることは云うまでもないと同様、理論乃至科学の階級性も亦一つの論理的規定であることを見失ってはならぬ。
 理論乃至科学の階級性(乃至党派性)は、普通理論乃至科学の比較的外部的な規定でしかないと考えられ易い。理論乃至科学が歴史的社会に於て、云わば偶然に外から受け取る現象形態に於てのみ、その階級性が認められるので、理論乃至科学の本質そのものには階級性はない。従ってプロレタリア科学とかブルジョア科学とかいう言葉は本来無意味なのだ、と往々云われている。だが自然科学に於てもテーマの選択一つにも、理論の組み立て一つにも、科学的成果の解釈一つにも、又理論の発達条件にも、凡てイデオロギーが口を利いているのである。自然科学の歴史的発達の促進阻害に就いてだけは階級性が見出されるが、自然科学の理論内容(即ち論理)には階級性を見出し得ないという考えは、自然科学がその理論内容と独立に発達し得ると考えるナンセンスに帰着する。自然科学の歴史的発達にもし階級性があるなら、この発達を必然ならしめた自然科学の内部的論理機構そのものに階級性がなくてはならぬ。もしそうでなければ、自然科学は全く偶然的に外部的な原因によって歴史的変化を遂げるものだということにならざるを得ないからである。
 尤も自然科学は社会科学や哲学に較べて、その階級性乃至党派性が或る意味に於て原則的に稀薄であることは認めなくてはならぬ。それは自然そのものと之を科学的に認識する人間活動そのものとの間に比較的間隙があるからに過ぎない。だが自然科学と云っても、之を社会の技術的基礎や社会機構全体、又他領域の文化乃至イデオロギーから切り離して取り扱うことは許されなかった。この連関は自然科学にとって偶然な外面的なものなぞでは決してない。でこの連関に於て自然科学の階級性を取り上げて見るなら、この階級性の積極的な意義はハッキリと浮き出て来る。自然科学の階級性を原則的に否定しなければならぬと考えさせるものは、科学至上主義となって現われる一種の管見的「哲学」の影響に過ぎないのであって、それ自身、自然科学論の社会階級性の最
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