フ二つの対立した立場があることはよく知られている。事実の問題として、自然科学に於ける科学手段の操作や科学方法の用途に於て、自然科学者が意識するとしないと、又彼等の自分自身の作業に対する自己解釈の如何とに関係なく、直線的に又廻り途をしながら、方法は弁証法を追跡しつつあるのである。之は「自然の弁証法」(所謂自然弁証法)に関する重大な一側面である。
 自然科学のかかる方法=論理は、それ自身すでに哲学を意味していたが、自然科学の方法=論理は又一方に於て世界観に連っている。そして世界観とは他の意味に於ける哲学のことを指すのであるから、今度はここでも亦自然科学は哲学に接続している。蓋し哲学の側から云えば、論理と世界観とは切実に連絡しているのであって、世界観を整理した結果が論理であり、理論によって構成されたものが新しい世界観である。自然科学は哲学のこの構造に、恰も陥ち込みでもするように当て嵌るものなのである。――自然科学は歴史的に見れば元来哲学そのものであったし又哲学の一種となることによって夫から分離して来たものであった。之は哲学的世界観の検討・整理として、又更に新しい哲学的世界観の根拠を提供するものとして発達した。之が自然科学の歴史的発展であり、その論理方法の発達なのである。従って自然科学は、今日でもなお哲学的世界観によって[#「よって」は底本では「よつて」]指示され動機づけられて、そして之によって意識的に促進されたり阻害されたりしていると共に、同時に又夫々の哲学的世界観を具体的にし、豊富にし、之を確固にし進展させるに重大な寄与をなしている。
 観念論的哲学の世界観が、ブルジョア文化圏に於て一半の勢力を占めている国々に於ては、物理学者や生物学者達が、如何に観念論的な自然科学的「結論」を導き出しているかを見るがよい。曰く物質の消滅・因果律の否定・活力説・神秘的な形を取った全体説など、之によって自然科学の科学的発達は名目上阻害され、廻り途をしなければならなくされている。そしてこの自然科学的「事実」が如何に又観念論的世界観の支柱となりつつあるかも見ればよい。曰く唯物論の陥落・自然科学乃至科学の無能・必然性の否定、信仰主義等々。之によって世界観そのものが歪曲され、例えば社会科学的認識などが極度に妨害されるのである。――処が実は、この自然科学的「事実」や「結論」は之を唯物論的にありのまま
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