事実である。この点自信に充ちた自然科学者や惰性の大きな歴史家とは少し別である。併しそれにも拘らず、こうした科学論・科学方法論・は、単にそれが観念論哲学の一分枝に過ぎなかったからばかりではなく、輸入された果実として、花や幹や根をなす科学そのものからの相対的独立性を、全く孤立絶縁した形として受け取ったのである。現に当時、歴史哲学や歴史学方法論は日本の史学にとって殆んど全く不毛であった(例えば平泉澄氏は『わが歴史観』で歴史哲学や歴史学方法論のようなものを試みているが、当時の氏の他の独創的な論策に較べて著しく地につかない青臭いものであった。平泉氏の思想的な本領は遂にここにはなかったので、元来今日氏が立脚している国民道徳みたいなものにあったと見える)。自然科学論もまたその頃は、石原純・田辺元・等の諸氏の業績にも拘らず、何等専門家に真の関心を強いるものではなかった。ヨーロッパでは必ずしもそうでなかったに拘らずである。
かくてこの期の所謂『科学論』は単に科学そのものに対して押しが利かなかったばかりではなく、そのおのずからの結果でもあり一部分その原因でもあるのだが、あまり重厚な社会的現実性を有たなか
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