てデモクラットとしての積極性を有つわけで、それが現代日本の科学論の正面の性格をなしているだろう。だがこうした現下の日本の所謂「自由主義」の背後に、実際にどういう民衆的意図が蔵されているかは、一般的に検討されねばならぬことだが、少なくとも科学論に於けるこの自由主義的特色は、一部分は唯物論への意向を含んだものであり、一部分は唯物論に対する主観的な反対を意図したものであり、他の一部分は、率直に唯物論に立脚するものであって、之等のものに対立する対極としての文化ファッショ的科学論議(国体明徴的歴史科学論や民族主義的社会科学論から、主観論的自然科学論――之は橋田邦彦博士から田辺元博士の所説の一部までも含む――に至るまで)と、一部分交錯し他の部分に於て分極していることにある、と云うことが出来るだろう。――そういう意味に於て、唯物論を、意識的無意識的に、問題の枢軸としているということを、吾々は見落してはならないのである。之が今日の科学論に、あれ程の社会的リアリティーと時局的重大性とを与えている処のものだ。
さて、今日の科学論は、かつての世界大戦直後に日本で一時行なわれたあの「科学論」のような、ああい
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