主人は、無産者であろうが、今日の日本などの無産者はこの自然科学を充用する当人ではなく、従って彼等は又自然科学の思想的な享受者でさえもないのだ。自然科学に関する社会的企画は彼等の知る処でないばかりでなく、自然科学(一般に科学だが)は彼等にとって、単に「ムツかしいもの」にしか過ぎないのが、遺憾ながら今日の現状である。だから自然科学の今云った擬似アカデミシャンは、そのやや的確な諸制限にも拘らず、極めて有用な社会的任務を課せられている。自然科学の思想化傾向や科学論的検討への参加は、知ると知らぬとに拘りなく、その任務が課せられた結果である。
だがもう一つの刺戟的な原因は、人も知るように、今日の日本型ファシズムの進行に伴うファッショ的文化情勢であったのである。「知育偏重」排撃を中心とする国体明徴主義其の他の科学教育・科学政策・が強化されるに及んで、自然科学者らしい自然科学者の大半は(少数の非科学的な科学者の例外はやむを得ないとして)、云わば本能的に、科学的精神[#「科学的精神」に傍点]というようなものの提唱に向わざるを得なくなった。尤もその科学的精神と呼ばれるべきものが何であるかに就いては、まだ
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