ける唯物論的科学が厳存していないとすれば、ああした擬似科学論など凡そ意味のないものであり、誰も真面目に対手にしなかっただろうものだ。
 初めから思想的な内容を以て今日に及んでいる社会科学とそれに直接する限りの歴史科学とが、その科学論を通じて、学術的性格そのものと思想[#「思想」に傍点]との連関を存することは、あたり前である。だが自然科学になると事情は少し別な筈で、マルクス主義の全盛期に於ても、自然科学に関する科学論の意義は、専門家の間に充分の関心を呼び起こさなかった。ブルジョア哲学系統の哲学者・自然科学者・による科学論も、決して充分に学術的尊敬を払われたとは云い難い。ましてプロレタリア・イデオロギーの系統にぞくする科学批判が、ブルジョア大学其の他のアカデミーを中心とする自然科学者達を、いたく刺戟したにも拘らず、あまりブルジョア社会的信用を博さなかったのは、当然と云えば当然だが、併し失敗と言えば失敗と云わざるを得ない。
 だがこの失敗も亦当然だったのである。と云うのは、当時の科学批判者が自然科学そのものばかりでなく自然科学者の研究的態度そのものの現状に充分の理解がなかったというだけではない。自然科学が、自然科学自身という世俗的な埒を守っている限り、当時はまだ自然科学者を社会的に反省させるだけの内部的な矛盾も、困難もなかったからで、つまりまだ、自然科学内部に於ては、科学論への真剣な省察や、ましてマルクス主義的、唯物論的、な科学論への真面目な注目を強いる条件はなかったからだ。科学の哲学的基礎というようなことを聞いても、まず一応の文化的儀礼として聞きおくという程度のものであり、あまり重ねて耳にすると専門化らしい軽い反感を催したりする程度にすぎぬのだった。まして当時進歩的イデオローグが取り上げた科学の階級性などという問題は、頭から、科学を誣いるものでしかないと考えられた。科学の大衆性と云っても、科学の啓蒙活動と聞いても、丁度日本の議会に婦選案を上提するようなものであったものだ。
 処が最近、自然科学者側からする科学論にたいする興味は、前に比較すると異常に高まって来たと云うことが出来るようだ。少なくとも科学論は自然科学界に於ける或る種の市民権を得たように見える。この現象は色々の処に見て取れる。少なくとも夫は科学的ジャーナリズム[#「科学的ジャーナリズム」に傍点]の発達に見られる
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング