。雑誌『科学』や、『唯物論研究』、又『科学ペン』を初めとして、『科学評論』とか『綜合科学』とかの活動を見ねばならぬ。一般評論雑誌に於ける自然科学関係の論文や評論が目立って殖えて来た事も注目に値いする。この科学的ジャーナリズムは、普通考えられているような科学ニュースの提供という意味での科学ジャーナリズムではない。科学随筆(?)の如きものに堕する傾きもなくはないが、それとても単なる全盛の一余波につきるわけではない。現象の要点は、自然科学に関する科学論的省察が、色々の形で盛んになって来たということに他ならぬ。自然科学が、思想一般の問題に対して、重大な役割を再び(云わばルネサンス以来)持って来たことの、国際的現象の、日本的一環なのだ。
 この現象を私は、自然科学の思想化的傾向[#「思想化的傾向」に傍点]と呼びたいのであるが、反対する人も多いだろう。特に今日自然科学や哲学の出身の科学論者の或る者達が、決定的に占拠した保塁と見做しているのは、科学の所謂社会階級性を否定又は無視してよい[#「してよい」に傍点]という点にあり、又更に、科学の国民的・民族的・国家的・特性の強調に対しては或る程度譲歩した方がよい[#「した方がよい」に傍点]という点にある。科学階級性の論議はもう過ぎ去った通り雨だという風にされている。なる程この現象に間違いはないと思うが、併し左翼か右翼かを簡単に決めることだけが思想化[#「思想化」に傍点]というものではない。自然科学が例えば世界像や世界観の問題に踏み出せば、それは立派に思想上の問題として取り上げたことなのだ(『科学』一九三七、四月号)。科学教育の問題(『科学ペン』同四月号)も、科学的精神・科学的政策・の問題も、勿論自然科学から踏み出した思想問題だ。
 科学階級性の問題につらなる科学大衆化の問題、科学的啓蒙の問題、それからアカデミーとジャーナリズムとの問題は、世界観や、まして科学政策・科学精神・科学教育・の問題と、どこが違うのか。而もこうしたものが今日の科学論の世界を支配している時局的課題なのである(この際特に、科学を自然科学に限ってはならないことを注意せよ)。これが今日の自然科学の思想化的現象である。そして之が、自然科学関係の科学論の内容をなすべきものなのだ。処でこうした科学論が、今日世間一般の大衆の思想上の課題として圧力を有って来たと共に、自然科学専門家
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング