ったのが事実だ。之は思想的な時局性・文化的時事性・を持ったものとはいえなかったのである。かつて古く、歴史は科学であるかどうかという議論が、日本でも試みられたことがある。内田銀蔵博士などが有力な論客の一人であったと思う。この論議はバックルの史観に遠由しているわけで、勿論外国で行なわれたのが日本でも行なわれたのである。前にあげた田口鼎軒氏などもバックルから大きい影響を受けたもののようだ。併しこの論議は当時は、殆んど全く一般学界、まして一般思想、に影を投じなかったらしい。処で今云った所謂「科学論」(大戦直後の科学論時代のそれ)も、要するに之と質的スケールを同じくするものであって、それが少し量的スケールを大きくしたものに過ぎなかったのである。
科学論が、特に社会科学、歴史科学、と現実的な連関を与えられ、そういう意味で学術的に地につくと共に、又時局的な圧力を持った思想として社会的実在性を受け取ったのは、日本に於ては、云うまでもなく世界大戦後からのマルクス主義の発達に由来する。ヨーロッパでは、ブルジョア哲学に基く観念論的な科学論と雖も、なる程一面に於てその不毛振りの悪評は高かったに拘らず、なお且つ科学研究上の或る実用性を持っていた。つまり科学特に社会科学乃至歴史学を観念論化するには有名な武器であった事を見落してはならぬ。処が日本ではそうでなかった。それがマルクス主義に依ることによって初めて、学術的に地についたわけだが、それが又同時に、社会的にも足を地につけることになったのである。之までの日本では未だかつて、これ程社会的現実性と思想的圧力に富んだ科学論はなかった。尤もこの場合、表面上、科学論という言葉ではなしに、史的唯物論の名の下に、又は一般に論理学の名を以て、呼ばれているわけだが。
それだけ、社会科学・歴史科学・に就いての近代日本の科学論は、専らマルクス主義をめぐって行なわれているわけである。と云うのは、今日の日本に於ける社会科学的・歴史科学的・科学論は、マルクス主義に対する、或いはもっと原理的にまた一般的に云い現わせば、唯物論に対する、向背を極度に意識しないでは、あり能わぬのが当然なのである。このさい科学論は、この種の科学の思想的な鍵と見做される。それであるが故に、国史主義的な非科学的科学論も亦、之に対する反動的な分極として、初めて存在出来るわけで、もし一方にこの領域に於
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング