達を有つ或る理由があったのである。云うまでもなく夫々の時代の科学と科学論とは密接な連関を持っている。だがこの連関が機械的に割り切れるようなものでないのが事実であったし、今日でも亦そうだ。それ故今日までの科学論が、主として専門の科学者ではない処の、而も夫々の専門科学の付近で物を考えた処の、哲学者達によって試みられたことには、或る充足理由があったわけだ。
 だが、この独自の歴史を持った所謂「科学論」は、日本に於てはあまりに独自すぎる条件の下に、つまり科学そのものから孤立隔絶した条件の下に、輸入されたのである。科学のない科学論、科学と無関係な科学方法論が、日本の哲学界の一時の時局的相貌を支配した。それは世界大戦直後の数年間であり、文化哲学や批判主義哲学の流行と略々一致する。之によって日本の思想界の科学論時代が齎されたようにさえ見えた。尤も全然科学と無関係な科学論は、勿論あり得る筈はない。左右田哲学も経済学と無関係ではなかったし、新カント派の法理哲学に食いついたのは法学者であったのだ。そういう形で科学者特に社会科学者は、専門の領域が日本ではまだ若かったためもあり、著しく哲学的影響を蒙ったことが事実である。この点自信に充ちた自然科学者や惰性の大きな歴史家とは少し別である。併しそれにも拘らず、こうした科学論・科学方法論・は、単にそれが観念論哲学の一分枝に過ぎなかったからばかりではなく、輸入された果実として、花や幹や根をなす科学そのものからの相対的独立性を、全く孤立絶縁した形として受け取ったのである。現に当時、歴史哲学や歴史学方法論は日本の史学にとって殆んど全く不毛であった(例えば平泉澄氏は『わが歴史観』で歴史哲学や歴史学方法論のようなものを試みているが、当時の氏の他の独創的な論策に較べて著しく地につかない青臭いものであった。平泉氏の思想的な本領は遂にここにはなかったので、元来今日氏が立脚している国民道徳みたいなものにあったと見える)。自然科学論もまたその頃は、石原純・田辺元・等の諸氏の業績にも拘らず、何等専門家に真の関心を強いるものではなかった。ヨーロッパでは必ずしもそうでなかったに拘らずである。
 かくてこの期の所謂『科学論』は単に科学そのものに対して押しが利かなかったばかりではなく、そのおのずからの結果でもあり一部分その原因でもあるのだが、あまり重厚な社会的現実性を有たなか
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