類の歴史には、浮き上っているにせよ早急にせよ、とに角思想という抽象を可能ならしめる一つの運動があるのであって、この思想というものの歴史から見ると、科学論の科学そのものに対する相対的な独自性という事実には、歴史的意義があるからである。
 科学的精神というものも、宙に浮いたものであってはならぬわけだが、そうかと云って之を専門の科学者だけの精神と理解することは、勿論由々しい誤りである。例えば、科学的精神は科学を実際に研究することを離れては無内容だという考え方も、一見物を「具体化」すやり方のようだが、半面却って思い切った抽象なのだ。なぜなら、それでは専門の科学者でない一般大衆は、科学的精神に遂に近づくことを許されないのであるか、科学的精神は彼等には猫に小判なのであるか、と問わなければならなくなるだろう。科学的精神が一つの思想[#「思想」に傍点]として、社会的実在性を有つ時には、之は科学の専門家だけによる反省的所産でばかりあるのではない。勿論専門家の科学研究をば指向的に貫くものであると共に、夫は歴史的経緯の結果として、同時に[#「同時に」に傍点]、人間生活全般を貫く大衆の生活意識の基調でもなくてはなるまい。生活全般・文化形態全般・が科学という文化の一ジャンルに解消して了うのでない限り、科学的精神なるものの思想的な抽象性と普遍的な流通性とには、実際上の意義があるのだ。そうでないとすれば「思想」というものを一般に否定する他ない。思想が犯す浮き上りの弊害、或いは寧ろそういう必然的な誤謬[#「必然的な誤謬」に傍点]の故に、思想の抽象的流通性そのものの実在性をさえ、観念的に無視したり否定したりする結果となってはいけない。この必然的な誤謬を克服して行くという課題の実行の内にこそ、思想の真実が実現するのだ。この点現代の科学(自然科学と社会科学)の専門家乃至科学アカデミシャン達の一考を要する処であり、同時に彼等の社会的な位置と役割とに関する問題だ。――単にブルジョア科学者のことだけではない、唯物論的傾向にある科学者達に於てもだ。唯物論の「具体化」の名の下に、擬似ブルジョア・アカデミシャニズムに陥り込んではならないのである。
 所謂科学論(之は勿論ブルジョア哲学と密接な関係があって発達して来た)というものも、科学に就いての思想的[#「思想的」に傍点]な所産なので、そこに一応相対的に独自な史的発
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング